なぜ世の中に苦しみがあるのか。
神仏が人間は間違いを犯すものだから、苦しみを与えたのか。
人は人生の中で病気になってしまうことがある。
全く何もないというのはほんのひとにぎりで何かしら病気の体験をする。
苦しみの伴う病気なんてなぜあるのか。
地震、風水害など災害がおき、天変地異が起きる。
飢えがあり、病気が流行して人々の心が凍る。
経済が成長し、また衰退して生きるのが辛い。
日常の中で怪我したり、失敗したりいいことない日々が続く。
人間は自分が苦しいとき、神仏がおられるならなぜ人間に苦しみを与えるのかと天をあおいで口にする。
しかし、それはとても傲慢なことなのだ。
なぜって何事も起きなくて自分が自由に暮らしていて、自由を享受しているときにそれが当たり前で自由であることがとてもいいこと、楽しみがあり喜びがあると感じながら神仏に感謝しないからだ。
根本神仏はこの宇宙を創ったときに人や生物に「自由」を与えた。
自由には楽しみや喜びが伴う。
そして「自由」には「責任」が伴うはずのだ。
なぜ「責任」が伴うか、それは人はひとりでは生きられないから。
それなのに人はこの責任を果たさずに苦しみがあるときだけ神仏に「なぜ」と問う。
この「自由」が与えられていることに感謝できて苦しみがあるときに自らを省みることができたら苦しみは少ない。
そしてこの感謝や省みる対象はそれがそうだと言わなくても神仏であることには間違いがない。
キリスト教の義人ヨブが「心の大切さ」を最初に学んでいたらたくさんの苦しみを与えられなかったのではないだろうか。
人は行いにて間違いを犯さなかったら善人と言われる。
その善人として生きている人もその心や行いにおいて他の人を傷つけることも罪だと気がつかなければ
ならないのではないだろうか。
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