「自由」ということをブログに書いてきた。
書き足りることはない。
「自由」という言葉があると、人は「平等」ということばを続ける。
今の日本の若い人に聞けば「何でも自由だからいいじゃん」、そういうことばで終わって「平等」まであまり考えないのかも。
ひとつは日本人には兄弟が少なくなったから兄弟で分け合う、それも多人数で分け合うことがなくなった。
ものが溢れていて、そして個人主義的なことが多く近所でも分け合うことがなくなった。
「平等」を考えるとき、一番にでてくるのが政治の中での「平等」だったが仏教の話から考えてみた。
日本の仏教で地獄の様相の話、地獄で飢えに苦しんでいる人がいる。
食べ物があるがその人は長い箸を持っている。
その長い箸で食べ物をとって食べようとするがその箸はとても長くて食べものを口に運ぶことができない。
食べ物があるが、いつまでも飢えで苦しんでいる。
地獄では物を食べなくても生きていられる。
肉体としての認識はあるが実在するのは魂だけだから。
人が死んであの世に旅立って、一番最初に生きていた時の人生がどんなだったか、それを確認される。
その中で残してしまった課題が来世の課題になる。
よく世間でもいう「業~カルマ」を残したということ。
そのカルマは来世課題として残るだけではない、まず、今世を終えてあの世に行ったら仏さまの心に合って生きた人なら天国へ行く。
しかしそうでない人は何が課題だったか気づくために地獄にいく。
地獄の様相は昔も今も変わらないことあり、また最近の世の中にあった地獄の様相があるはず。
それから悪魔、サタンと言われる、地獄の最深部がある。今でもよく映画になる。
ここまで書くと宗教的な人は悪魔はいるのか、サタンはいるのか。
神仏は悪魔を作ったのか、神仏は悪魔のことをどう考えているのかと長い間の疑問に答えがほしいということになると思う。
いつかこのこともブログに書くことがあるのだろうか。
地獄で長い箸をもった人が食べ物を口にするために気がつかなくてはならないことそれは近くにいる長い箸をもつ他の人とお互い向かい合って長い箸でつかんだ食べ物を食べあうこと。
この人はおなかが空いているのではない。
自分が食べることばかり考えて他の人のことを考えてあげられない心がその心の中に地獄を作っていたのだ。
人は一人では生きられない。
人に依って生きているのにあまりに自分のことしか考えていなかったのだ。
「平等」はお互い様の気持ちが大切。
それは「時間」を超えて。
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