昨日、人は個人や家庭としての苦しみのほか、その団体、国家などの苦しみの時があると書いた。
それまでは他の人が苦しんでいても「自分は、自分のところは大丈夫、自分に不幸はやってくることはない」と思っていることが多い。
本日強い、インスピレーションがあった。
Miroku shows the god 16
「 信仰者よ
汝ら、神仏を試すなかれ 」
今日のインスピレーションはとても短いものなので
その意味について書いていく。
仏さまは「愛」である。
しかし、仏さまは「愛」であるから、
何をしても許されることはあるだろうか。
信仰があれば何でも許されることはあるだろうか。
そういう信仰なら、その信仰している人だけが幸せになり、
それ以外の人は不幸になってもしょうがないのだろうか。
そんなことはない、
そして信仰は個人がこの世に表していなくても、
その心に信仰を持っている人はいる。
自らが正しく生きんとし、その信仰を大切にしている人はいる。
仏さまはその心を見つめておられる。
本当によく見ておられる。
また自らが信仰者だと言い、その信仰を広めるのに努力を
しているから自分が危険なことをしても守られるということは
あるだろうか。これは過去の歴史の中でも時々、
信仰者にみられたことだと思う。
神仏を試すなかれ。
神仏は「愛」であるけれども
その崇高さを知れば、「畏怖」するものである。
「神仏を試す」とは自分は信仰をしているから、だから守られているというものだ。
「神仏を信仰しているので守られている」というものは信仰であるが「信仰があるから守られる」というものはそれは神仏を試していることに他ならない。
そういうことだと思う。
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