先日のブログで書いた「神仏への畏怖」についてもう少し書きたい。

神仏は「愛」であるけれどもその崇高さを知れば、「畏怖」するものである。

「神仏を試す」とは自分は信仰をしているから、だから守られているというものだ。
「神仏を信仰しているので守られている」というものは、信仰であるが「信仰があるから守られる」というものはそれは神仏を試していることに他ならない。

「自分は神仏を信仰をしているから守られている。」
「自分は神仏を信仰があるから守られる。」

信仰によって守られているのは「神仏にお守りください」という信仰の元の祈りがあって、そして守られたという「結果」を自分で認識できたときに守られているのだと思う。
そして心から神仏への感謝が生まれる。

人は軽はずみな言動で人を傷つけることがある。
また人は間違いを犯すことがある。
神仏はその間違いの原因をすぐに因果の理法によって本人に結果を与えることはない。
その人の人生で一番その人の心の成長にとってよいときに現す。
また自分自身に厳しく、正しさをより求めている人にはその時間の間隔が短いのかもしれない。

しかし、神仏に対して信仰があるから自分は守られるというものは非常に傲慢で神仏を試していることに他ならない。
神仏への信仰ではなく、自己満足なのかもしれない。
そういう考え方は非常に危険だと思う。

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