「神仏への畏怖」として「神仏を試すなかれ」「因果の理法を司る神仏」と書いてきた。
そして3つめに「神仏の秤」について書きたい。

人はある人が善行をしていると徳があってりっぱだという。
そして「悪人」と呼ばれている人(例え風評であろうとも)に対してあの人は「悪いことをしたから悪いことがおきて当たり前」だという。
日本で言ったらバチがあたったというものだろうか。

神仏の秤はあるのだろうか。
神仏の秤があったら、その秤は善と悪を分け、一人の人の善と悪と秤に乗せたらどちらが重いかと考えるだろう。

人は自分の心の中に善悪の秤を持ち、量ろうとする。

その秤の目盛りは誰によって書かれたものだろうか。
その秤のどちらかに乗せるかは誰が決めているのだろうか。
その秤に乗せるタイミングは誰が決めているのだろうか。

自分の心で自分を秤にかけているのではないか。
人間の心で他の人の善悪を秤にかけているのではないか。

善悪を秤にかける。
これは神仏のされることで人間の心でおこなってよいものではないと思う。
この世の価値観ではないもの、神仏しかわからないのが事実だと思う。

人は善を、正しさを選んでいかなくてはならない。
しかし、それは他の人に求めるものではなく、 まず自分の心に求めるものだと思う。
他の人の悪を攻める前に自分の心の点検が大切。
同じものはないか、同じことを心に描いたことはないか、過去においても同じものはないか。

なぜ、神仏の秤の話かというと人の善悪の真実を知っているのは神仏のみだからだ。
そういうことで神仏に対して畏怖の心をもつことが大切。

そして人は神仏の属性をたくさん身につけていくことが大切。
善を、正しさを選んでいくこと、それは仏性を磨くということ、そしてそれをこの世に顕わしていくことだと思う。

人として善悪について一番大切なのは一念三千
自分の心を秤にかけてみるより現在ただ今の自分の心が善悪を分け、正しさを選んでいるかということだと思う。

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