「自由」と「自由主義」について書いてきたが
  まだいくつか書きたいことがある。後日つづけていく。
  本日どうしても「正しさと愛」について書きたい。

  私は18年前にある会場で「正しさと愛と両方が大切」と
  言ったことがある。正確に言えば「精神世界」の話になる。
  その内容についてここに書いておきたい。

  「正しさ」というと気の引き締まる思いをするのは
  私だけではないと思う。
  「正義」といったらどうだろうか。
  その時代時代の「正義」があると以前このブログに書いた。
  「正しさ」は個人的な道徳的なものに近いと思うが
  「正義」というと公の義としての「正しさ」、
  「正義」というと「悪を罰する」とか「罪を犯した者への罰」
  ということも考える。
  宗教的な人は「正義は勝つ」ということばが
  好きな人も多いと思う。

  ひとつの事柄について「正邪を分かつ」ということで
  「正義」はどうかということがある。
  事柄の起きたときは正邪を分けて「正義」であっても
  その「正義」を公に現すとき、大切なのは手段である。
  相手が間違っているといって、そう言っている行為が
  「正義」からずれていってしまった場合、
  それは最初の「正義」そのものにも不消化な部分が
  残ってしまう。
  「正義」を現すときにそれを勝負で勝ったという
  「結果だけの正義」を求めてしまうとその過程の中で
  多くの間違いが生じて今の民主主義の世界では
  納得ができない、何かおかしいと思うということが出てくる。
  そのときも仏さまは言われた。
  「結果のみが大切なのではない、その過程が大切なのだ」と
  それはそれにかかわる多くの人に良い影響を
  与えていくものになるからである。

  「軍事力」について書き添えておくと
  このブログに「軍事力」についてたくさん書いてきたが、
  では自らが正しいと言って「先手必勝」とばかりに
  先制攻撃をすることは正義だろうか。
  これも以前このブログに書いたが政治的には
  「エンカウンター」ということがある。
  民主主義下ではまず、「話し合いをおこない解決に向かう」
  ということがなされてきている。
  その結果がいかなるものになるかはその進行によって
  異なってくると思う。

  「正しさ」はまず、自らの「仏性」を見出すために
  自分に求めるものだ。そして他者に対して教育として
  人が社会的に共に環境で生きるために必要なものでもある。

  「正義」を考えるとき、「正しさと愛の両方が大切」
  このときの愛は誰かに何かをしてあげるというもの
  ではなく、「時間」というものを含み、
  「慈悲」「慈愛」という「育む心」というものになる。

   仏さまは言われる。
 
      Miroku shows the God 22

     「 人よ
       他者の成長の過程で「寛容」であれ
       また自らも間違うことがある、
       他者に寛容であれ
    
       そしてお互いよりよき生活をしていくために
       自らもそして他の人も利するということが
       大切なのだ                 」

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