「 神の見えざる手 invisible hand of God 」
この言葉自体が自由の中、利益のみを肯定していく
信仰なき姿にもみえるのではないかと書いた。
この先を急いだ人がいただろうか。
「神の見えざる手」の意味はこの地上の人に与えらるものが
神の手により分配されていくというもの、
自由主義経済が発展していくと結果として
全体の利益が達成されるというものだった。
自由主義で自らに能力があり努力した資本家たちが、
自分の得た利益は自分のものとし、栄えている。
(雇用関係の中で不当かどうかということもあると思うが)
しかし、経済成長の中、そう言われていたのに
労働者や貧困者、また競争に負けたものには
一向に「神の見えざる手」によって分配がない。
「神がおられるなら分配があるはずなのに、
おかしい。自分たちも努力しているのに分配がない。
神はいないのではないか。
ならば我々の手で平等に分配したほうがよい。
資本家たちは我々の分も窃取しているから
我々の手で平等にしなくてはならないと考えたのではないか。
資本家たちは「神の見えざる手」という言葉を
使うことで「神の見えざる手」によって分配されるから
得た利益を自分のものとして享受していてよいと考え、
一方で国民は「神の見えざる手」によって分配がないから
自分たちの手で平等に分配すべきだと考えた。
どちらも信仰なき姿に見える。
しかし、国家の経済の話をするとき「神の見えざる手」の
「神」は本当の神が言われたことではなく、人間が
作った言葉であることを忘れているのではないか。
ここにひとつの言葉による呪縛が存在する。
Miroku shows the God 23
「 人よ
繁栄の道は発展と調和の中にあるのである
それはお互いの存在を認め合い
大切に考えるところから始まる
私によって分配されるのではなく
あなたがたがお互い幸福になる道を
選ぶところにあるのだ
Master of Master 」
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