先日から「 神の見えざる手 invisible hand of God 」
について書いてきた。
信仰のある諸外国では「神」と言われることがどれほど大きなことか
わかると思うが、この日本にはここでいう「神」という存在自身の
存在や重さを理解できる人は少ないと思う。
また、共産主義も「神の不在」を意味するが、本来「在った」ことをも
意味している。共産主義のリーダーが「神」への信仰のもと、
社会を作っていったら、また違うもっと高度な世界観をもった可能性が
ないわけではないと思う。
名のないときから、宗教的な社会主義的な考え方はあったと思う。
現在、これに近い社会主義国家を形成し、維持していこうとしている国も
あると思う。
もどって、「神の見えざる手」により分配されるはずだが、
資本家たちは利益を手にしているが労働者や国民には努力しても
利益がこない、
このことは現代は、時代が情報社会になってきたことで自分以外の人の
情報がある程度つかめるため、「神の分配」ではなく、
その労働の扱いについて正当か、どうかと考えることができる。
そして日本のような民主主義で人が不当と考え、不満をもつことは何か、
それが仏さまの目によって正当性があるとき、それによって
反作用が起きてくることも十分考えておかなくてはならないと思う。
不当とは何か、
労働者としてその賃金について何かしらの原因かまたは原因なく
不当だと感じること、
労働者として自らの生産性や自らの発明について全く評価を受けず
使用されること。
労働者自身が身に覚えない不利益をこうむること、
身に覚えない差別(いじめ?)を受けることなど、
そういうことが考えられると思う。
民主主義の場合の正当性について「不当でない」ことから
書いた。
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