このブログに何度か「私の握りしめた手」のことを書いてきた。
  「私の悲しみを握りしめたこの手を今世、開くことはないだろう」
  そしてこの握りしめた悲しみはどんなものかということも書いた。

  パンドラの箱を開けたら最後に残ったものは何だっただろうか。
  二通りの説があったと思う。
  私のブログではこの手を握りしめていたら「希望」
  開けばパンドラの箱を開いたときのようになるかもしれない、
  そう書いた。

  このようにブログを書く直前とこう書いてから
  無理やりこの手を開こうとした力を感じた。

  そして私は悲しみのこの手を無理やり開かれようとしたことで
  私自身が握りしめた手の一番奥にあるものを見た。
  パンドラの箱の最後に「希望」が残ったという説があったが
  私の手に最後に残るのは「信仰」だろうと思った。

  私の希望を奪われる苦しみ、そして信仰を奪われる苦しみ
  そして悲しみのこの手を開けばパンドラの箱のように
  なるかもしれないということ
  それは私が悲しみを握りしめながら生きてきた人生の中で
  信仰に出会い、様々なことを通し、
  正しさとは何か、仏さまとは何か、私自身の幸せ、
  人が幸せになるにはどうしたらよいか考えて生きてきた間に蓄積されたもの
  そういうことが苦しみのある他の人の、またこれから苦しみの多い世の中に
  なっていこうとするのならそうならないよう、「希望」になってほしいと思い、
  こののブログを書いているということにつながっている。
  そしてこの悲しみの手を開けば、悲しみのほうが大きくなって
  きっと「希望」を私自身見つけることができなくなる。
  そうするとこのブログを書くことができなくなるのだろうと思った。

  しかし、今起きていることについてたとえこの悲しみの手を開いても
  私はきっと最後の最後まで「信仰」を捨てることはないのだと思った。
  仏さまは20数年前の私が思い出したくない事実を言われる。
  このブログの「自由と犯罪」は私自身の涙と共に書かれたものである。

  私は未来に向かって「幸福の芽」を探していきたい。

  私は仏さまが愛であると思うが、
  また非常に畏怖する存在でもあると思う。
  私自身、仏さまの心に合わないこと自体に非常に怖さを感じている。

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