このブログにもいくつか因果の理法について
書いてきた。
「因果の理法は人を幸せにするためにある」と
書いた。
仏教の言葉で因果の理法というと
同じ因果のことで「不昧因果」「因果応報」と
いうものがある。
もう少し言えば、「縁起」などもある。
思い立つまま書いていく。
「不昧因果」は因果を昧ますことはできない。
特に悪いことをするとその因果が回ってやがて
自分の身に起きる。良いことをするとまた
自分の身に返ってくるということだと思う。
「因果応報」特に悪いことが起きたときに言われ
その元となる現象があり、そして今の悪い現象が
おきているのだ、因果がまわり、報いがあったのだと
ということだと思う。
「いじめ」はあってはいけないのだが
どんなところにもある。
歴史上、「そもそも人間とは・・・」という
人間の醜悪な部分として捕らえた差別問題について
現代は数多く取り組んでいる方々がおられることだと思う。
いじめる人に仏性はないか。
悪いことをする人に仏性がないか。
そういう人を見ていると仏性はあるのだと思う。
ただ、その仏性が現れにくい。
現れにくい人やそういう時に
「それでも仏性を信じよ」というより
距離をとり、時間を待つほうがようのだと思う。
特にいじめの問題についていうと
いじめる人は必ず、正論を見出そうとする。
いじめは悪いことだと自らの心が
知っているからなのだと思う。
いじめているのにいじめじゃないという場合は
「大儀名文」をかざす。
またいじめているのに言い訳するときは
「その子が悪いんだ」という相手の悪いことを
取り上げ、いじめる理由にする。
また「みんながその子がいやだと思っている」と言って
いやな子であるように噂を流し、仲間を増やす。
また日本のアニメーションンの影響か、
「因果応報」と言ってその子が悪いから
いじめられて当然と言っていじめを正当化する。
どれも人間として、してはいけないことだと思う。
このブログに書いてきたように「因果の理法」は
人を幸福にするために仏さま、神仏が法を
この世界にめぐらしたものである。
「因果応報」は仏さまの扱う神仕組みであり、
人が人の手でおこなうものではない。
まして人間が小さな神になって人を裁き、
いじめ、不幸にするものではない。
人が人に「因果応報」として悪しきことをしていたら
それは権力の問題であり仏さまの意思ではない、
仏さまから見ると神の如く振舞う人間が同じ人間を
裁き、傷つけている姿にしか見えないのだと思う。
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