自由と繁栄について書いていきたい。

自由と平等はよく並べられて表現される。
このブログに民主主義を超えるものということを
書いてきている。
「 神の見えざる手 invisible hand of God 」
自由競争によって「富」を多く生み出し、結果として
全体の利益が達成される。

「富の再分配」という言葉がある。
自由主義で階級による不平等が起き、
共産主義や社会主義という主義思想が起こり、
そして民主主義の中でも社会保障がある。

話は変わるが弥勒菩薩は「富の再分配」や「分かち合い」
という言葉と関係あるのだろうか。
長い間、明らかな形では私の意識の中になかったが、
私の民主主義を超えるものがそれに当たるならうれしいと思う。
しかし、私はnetの中で「富の再分配」「分かち合い」と
いう言葉を見たときから心の中で「違う!」と思っていた。
「分かち合い」は「富」を分かち合うのか、そうではない、
もっと違うものだと思っていた。
それは民主主義を超えるものの考え方の根幹とも思える
ものとつながっていた。

先日、「国富論」が悪いわけではないと書いた。
最初に「神の見えざる手」に書き始めたときから
考えてきていたことを書いていく。
「国富論」がなければ現在までに享受してきた世界の繁栄は
みられなかっただろうと思う。
神仏の心にかなった「自由」の中で
神仏の心にあった「向上」「進歩」であったら
繁栄は長く続くものになる。

しかし、時間の経過の中で、それは資本主義という考え方の中で
起きてきたこと、大きく開いていた階層の差が
縮まることはなかった。

「国富論」の前はどんな社会だったか、
そのときもキリスト教圏では「分かち合い」の心はあった。
多くの人が信仰の元に「他者を愛すること」や「分かち合い」を
善として行っていた。

自由主義の中で「分かち合い」を実践する人がいたら
その人の分だけ「分かち合い」が進むが、その期間は
どれくらいかわからない、その量がわからない。
資本家に「分かち合い」の心があったらどうか、
経済成長期とそうでないときと当然、波ができる。

民主主義はその後を捉えて社会保障制度を作ってきている。
では民主主義を超えるもの、それは「富の再分配」と
考えている人は多いのだろうか。

現代、民主主義の中で社会保障を考えるとき
必要なのは「富の再分配」の考え方ではなく、
ひとりひとりが個性をもち、自分の足で生きていくこと、
それがとても大切なことなのだと思う。

民主主義の中でそのシステムづくりが必要、
そのために「富」を使っていくということが大切なのだと思う。

   Miroku shows God 39

「 人よ、共に生きよ

  あなたがたひとりひとりが
  その個性を輝かせることが大切なのだ。
    
     Master of Master         」

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