※4/25追加しました
少し前に私は【ひふみ神示大奥山】を名乗りました。大奥山と集団(まどい)のカタについて書きます。
ひふみ神示を読んでいると教会を作らないことと書いてあります。大災害が多発している今でも日本では日月神示を広めようとせず、抑え込もうとしているところがあると思います。何故でしょう。動画とか関係している書籍が出ていますが、皆様個人の満足で終わっているのでしょうか。
キリスト教が何故このように広がったのかと言えば、神人の活躍と教会があったからです。イエス・キリスト復活後、その弟子たちが神人として大きく活躍し伝道しました。またそれまではユダヤ教の中の新派のような形だったのですが教会ができたために信仰者が苦難に打ち勝ち、集まり信者を増やして広まっていきました。そう考えると日月神示では神人のことはたくさん書かれていますが教会は作るなと書かれています。ここで思考が停止しているのでしょうか。
教会も集団も作るなというのなら広まらないことを目的としているとも言えます。しかし神示には世界に広める様にも書かれています。教会も集団も作るなというのは日月神示が下ろされた当時(昭和19年)を想定して神示を下ろしている面は否めません。現在、そう言っている方々は広めたくない人たちなのかもしれません。
私はひふみ神示を読み始めてから(音読すればよいのですが環境に制限がありできません)、My masterである大神(十の神)、そして様々な神とコンタクトを取るようになり、神々とのコンタクトが増えて蓮みろくとひふみ神示の真実性がはっきりしたので大奥山を名乗るようになりました。
大奥山についてひふみ神示には神人交流の場と書かれています。
大奥山は神人交流の道の場である。道は口で説くものではない。行ずるものである。教は説かねばならない。多数決が悪多数決となるわけが何故に判らんのぢゃ…
立体のみでは乱れるばかり、立体にアヤなせば、弥栄えて真実の道が判るのぢゃ。ぢゃと申して独裁ではならん。結果から見れば神裁ぢゃ。神裁とは神人交流によることぞ。
(ひふみ神示 月光の巻第7帖)
私は大神や他の神々の声が聞こえ、話をします。言わば私が神人となって居るところが神人交流の場となっています。その確信から大奥山を名乗りました。それによって必要なことをblogやX-twitterで発信しています。かなり制限がありますができることをしています。
大奥山は神人交流の場であるとすると、大奥山とは終末期に大峠を越して弥勒の世に向かう大神業の為の神人の集まりであり、その為の御神業を行う所になると思います。私は今、そこを目指しています。
大奥山には戒律はなく、戒律より高度なものとなります。立体、立立体、復立体、復復立体の悟りを目指し、神人交流の場を目指します。
(※4/25追加 戒律はなく…ですが来られる方々はひふみ神示にあるようにもう戒律は必要無い人の集まり、身魂磨きがある程度終わっている方々になるという意味です。今更ですが…。)
一方で昭和34年の神示では教会や集団(まどい)はたくさんあると書かれています。
岡本天明氏は日月神示が書かれた最初の頃昭和19年は教会や信者、集団は作るなと神示により霊指導されていますが、3年後の昭和22年にはひかり教会を作っています。この時に教会を作るなという霊指導は終わったのだと思います。
大奥山と教会をまぜこぜしてはならん。
(ひふみ神示 月光の巻第20帖)
大奥山(岡本天明氏の大奥山)から流れ出た宗団はひかり教会のみでないぞ。いくらもあるのぢゃ。出てくるぞ。故に大奥山に集ったものが皆ひかり教会員ではない。それぞれのミタマの因縁によって色々な集団に属する。この点よく心得なされよ。大奥山はありてなき存在、人間の頭で消化されるような小さいしぐみでないぞ。大奥山だけに関係もつ人もあるのぢゃ。囚われてはならん。三千世界を一つにまるめるのがこの度の大神業ぞ。
(ひふみ神示 月光の巻第21帖)
何度か繰り返し書いていますが、
集団は作るなではなく、大災害が多発している今こそ、ぜひ集団を作り防災に立ち向かってほしいと思います。集団を作り、仲間を作り例え困難なことがあっても仲間と共にそれに打ち勝ってください。自分にはそんなところはないと思うなら、仲間づくりを祈り、出かける事です。外に出て参加することです。そして自分の中に何か新たな発見をすることです。自分なんてという限界はありません。今の自分を拠り所にして外に出かけて新たな自分を見出して進むことです。
またゆるい集団では参加していくことが大事ですが、ひふみ神示(日月神示)を元とした集団の場合には違うカタが必要です。
ひふみ神示(日月神示)を音読して記憶しただけ、判ったと思っただけでは駄目です。【道】としてください。道とは神と共に生きる道です。大神への信仰と神の理を元に生きることです。大神の信仰を同じとする人々との集団に参加することです。ひふみ神示の内容について互いに裁かず、学び合うことは必要です。
身魂磨きが大切、洗濯、掃除が大切です。
しかし参加したその集団の中にひふみ神示を読み知識として知りはじめた人だったり、人の上からモノを言いたいばかりの人だったり、他人を悪い解釈しかできなかったり、悪い面しか見れない偏った身魂の人がいると他人を裁きたがり、修行の邪魔をすることがあると思います。その時は静止するか、その人から遠ざかってください。争いを呼ぶ元となると書かれています。
またキリスト教の教会には懺悔がありますが、ひふみ神示には人前で懺悔する必要はありませんと書かれています。大神には素直であってください。
左も右も上も下も相対の結果の世界ぢゃ…。相対では争ひぢゃ。いくさぢゃ。真の世界平和は今のやり方考え方では成就せんぞ。
(ひふみ神示 月光の巻第54帖)
ざんげせよと申しても、人の前にざんげしてはならんぞ。
(ひふみ神示 月光の巻第55帖)
ひふみ神示にはこのように書いてあります。教えを啓発として説くのは良いでしょうが、戒律にしたり、教祖の教えとしてカタにはめてしまうと個人個人の悟りの妨げになります。そのようなことに出会ったら、引き下がりひふみ神示の神示に戻ってください。
最後に、
ひふみ神示(日月神示)の大神は地球を内包している神です。ひふみ神示は大神であり、元の教え、十の神(十次元大神霊)の道であり、世界の元の理です。
釈迦、キリスト、マホメット其他世界の生命ある教祖及びどの指導神を、み光の大神様とたたえまつれと申してあろが。大神様(この前に書かれている記号の解読ですが大峠後の天津日嗣皇尊大神と読みます。)の一つの現われぞと申してあろうが。何故にみ光の大神様として斎きまつらんのぢゃ。
(ひふみ神示 月光第19帖)
ひふみ神示大奥山 弥勒の世 蓮みろく
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