2010.7.17 幸福の芽 1[現代のコミュニティについて 続5]を再掲します。

http://mi77337733.blog76.fc2.com/blog-entry-229.html

再掲 幸福の芽 1[現代のコミュニティについて 続5]

2010.7.17

このブログに何度か「私の握りしめた手」のことを書いてきた。
「私の悲しみを握りしめたこの手を今世、開くことはないだろう」
そしてこの握りしめた悲しみはどんなものかということも書いた。

パンドラの箱を開けたら最後に残ったものは何だっただろうか。
二通りの説があったと思う。
私のブログではこの手を握りしめていたら「希望」、開けばパンドラの箱を開いたときのように(あらゆる災害が起きることに)なるかもしれない、そう書いた。

このようにブログを書く直前とこう書いてから無理やりこの手を開こうとした力を感じた。

そして私は悲しみのこの手を無理やり開かれようとしたことで私自身が握りしめた手の一番奥にあるものを見た。
パンドラの箱の最後に「希望」が残ったという説があったが私の手に最後に残るのは「信仰」だろうと思った。

私の希望を奪われる苦しみ、そして信仰を奪われる苦しみそして悲しみのこの手を開けばパンドラの箱のように
なるかもしれないということそれは私が悲しみを握りしめながら生きてきた人生の中で信仰に出会い、様々なことを通し、正しさとは何か、仏さまとは何か、私自身の幸せ、人が幸せになるにはどうしたらよいか考えて生きてきた間に蓄積されたもの、そういうことが苦しみのある他の人の、またこれから苦しみの多い世の中になっていこうと
するのならそうならないよう、「希望」になってほしいと思い、こののブログを書いているということにつながっている。
そしてこの悲しみの手を開けば、悲しみのほうが大きくなってきっと「希望」を私自身見つけることができなくなる。
そうするとこのブログを書くことができなくなるのだろうと思った。

しかし、今起きていることについてたとえこの悲しみの手を開いても私はきっと最後の最後まで「信仰」を捨てることはないのだと思った。

仏さまは20数年前の私が思い出したくない事実を言われる。
このブログの「自由と犯罪」は私自身の涙と共に書かれたものである。

私は未来に向かって「幸福の芽」を探していきたい。

私は仏さまが愛であると思うが、また非常に畏怖する存在でもあると思う。
私自身、仏さまの心に合わないこと自体に非常に怖さを感じている。

2011.6.7追記

(このブログの「自由と犯罪」は私自身の涙と共に書かれたものである。私は20代前半で職場の既婚者からレイプ事件に会いました。)

怖さと辛さでそのまま引きずり、現実から逃避し肯定までしてみようとした私に(3か月後位に)その人が突きつけたものは「全てはおまえが悪い」ということだった。
苦しみの中生きようと思ってから私はその辛いことを心の深いところに沈めてしまい込んだ。
そして仏さまに出会い、信仰を持ってから仏さまは言われた。(あなたが思い出したくないと思っているそのことはレイプ事件なのだと)
思い出すことさえ拒否し続けたそのことを再認識した。

ひふみ神示大奥山 弥勒の世 蓮みろく 

Posted in

コメントを残す