今年も蓮の花と光を撮りました。
昨年の写メにはかなわないようです。



今年も蓮の花と光を撮りました。
昨年の写メにはかなわないようです。



以前、平和への祈り2011.4.28を書きましたので
お盆ですが平和への祈りという題をつけさせていただきました。
今年の大震災で多くの方が亡くなりました。
本日はお盆の入りの日ですが、お盆ということで書きます。
仏さまは言われます。
「 被災で亡くなった者よ
あの世に旅立てない者よ
あなた方がとらわれている肉体は
この世で自らの魂を向上するために
用意した乗り舟である。
あなた方の本来の姿は霊であり、魂なのだ。
蓮の花に乗ってあの世に帰るのだ。
今世、共に過ごした家族や友人は
いずれあの世で再会し、
幾転生輪廻の中でまた共に過ごすことがある。
地上に残された者よ
あなた方は深い悲しみの中にいても、
あの世に旅立つ者に別れを告げなくてはならない。
あなた方が強く思えば思うほど、
故人はあの世に旅立てず、
心の安らぎを得ることができない。
来世を誓い、旅立ちを祈るがよい。
Master of Master 」
蓮の花に乗って

天上の世界へ

お還りください。

ふと、昨年の蓮の花の写メを見ていたら
一枚upしたくなりました。
眩しすぎる感じが致します。
更新が止まっているFC2のプロフィールの花です。


何度か霊能力について私のブログで書いてきています。
霊能力と悟りの階梯、
どの霊能力はどの段階かということではないと思います。
霊能力はその人の使命であったり、
使命によって持ち合わせるものが違ったり、
またその人がもともと持ち合わせているものであったり、
または何かの拍子に
無理にこじあけられたりすることがあります。
悪しきものに憑依された場合もあります。
感(シックスセンス)が強くても
精神的な柱が心にない場合、
悪い霊に憑依され、霊能力を
持ち合わせたようになることがあります。
その大きさは権力との関係もあります。
霊能力が自慢とか、霊能力を誇示しようとすると
そればかりにこだわると間違うことがあります。
ユートピア社会から遠くなります。
神はその姿を現すために時として
そういう力をみせてくださることがあります。
しかし、主エルは念力や霊能力により支配された世界を
理想とはしていません。
神と共にこの世をより良い世界にしていこうとする者を
望まれています。
先日からdiaryで政治、経済について細かいことを
書いていますが、実は考えていたことは
国家経営戦略会議 National Strategic management Council
(英語合っていますか?)
webでおこなうとあっという間にInternationalに
なってしまいます。
以前、私のブログに「政治に経営を」と書いたことが
ありましたがその時に考えていたことです。
すでに震災後、web上で擬似的なものを開催させていただき、
たくさんの有識者の方々からご意見を頂戴いたしました。
自由主義だからこうしなくてはならない、
社会主義だからこうしなくてはならないというものではなく、
国家国民の幸福、ノーマライズに生きること、
そして共に豊かに生活していくためにはどうしたよいか、
それが世界全体の幸福に寄与し、
また世界に働きかけることで
共に繁栄に向かうことができるようになる。
そのために国家経営戦略会議を繰り返していく。
そういうことが大切と思います。
今年も蓮の花の写真を撮りました。
昨年より早くから咲き始めました。
どなたかの癒しになったら幸いです。
来週もう一度upします。





親子の縁と兄弟の縁
親子はやはり親子であり、
今世そこから離れることはない。
兄弟はどうだろうか。
兄弟は一番身近な競い合う相手になる。
親の愛を求めて競い合う。
何がなくても競い合うのだから、
そういう自分の心を留めて
家族が調和していくことが大切。
誰かがいなければという、
そういうことでは社会を
形成することさえできない。
Miroku shows God 46
「 信仰者よ
他者を排撃する者よ
私が許さん
盾になっている者の
苦しみ、悲しみがわからないか
Master of Master 」
書いている私が辛い。
私にはどうにもできません。
神仏の怒りはやまに向かいます。
真の祈りをあげてほしい。
「 主エルよ、
日本に留まる悪天候から
私たちをお守りください。 」
「 天の神よ、地の神よ
私は共に生き、調和を大切に
生きていきたいと思います。
どうぞ、天と地の怒りを
お鎮めください。 」
Miroku shows God 45
「 その場から立ち去りなさい。
Master of Master 」
*追記*
少なくても私は3年以上は説得したはずです。
神仏の忍耐は
人間と比べられるものではありません。
神仏は沈黙しているから許されている。
何をしてもいいのでしょうか。
神仏を信仰しているとして
本当は何を信じているのか。
数字でしょうか、
人でしょうか、仲間でしょうか。
ばれなきゃよいのでしょうか。
本当の神仏の信仰とは何か、
考えていかなくては
ならないのではないでしょうか。