•    Miroku shows the God 21
     

       You who trusts in God

       Leader who acts in the world to make people’s happiness

       Pray to the God

       [ God who includes this earth
         
         God who is this planet of love

         Please lead me for a lot of happiness of people  ]

            Master of Master

      英語まちがっていたらすみません
      ニュアンスがわかっていただけたら。

  •    当たり前だが、日本は民主主義国家である。
       しかし今、社会主義に非常に強く傾倒してきている、
       そう先日のブログに書いた。
       社会主義を名乗らずに社会主義政策が進んでいる。

       これは民主主義とは言わない。
       今、沖縄普天間基地移転問題を中心とする日本の防衛に
       関係なければ、この政策の流れの中で自然に社会民主主義と
       呼ばれるものに近くなっていた可能性もある。
       子ども手当ではなく子育て支援を先に充実できたら
       よかったかもしれない。
       日本の経済政策が機能して日本経済の安定期に
       子ども手当ではなくフランスのように
       家族手当の支給がこの日本で効果をあげられるか
       試行の検討をするのもよかったかもしれない。
       その他・・・。

       私のこのブログに以前、その時点では
       今の日本で民主主義を超えるものができる可能性が
       あると書いてきた。

       では形成されつつある社会民主主義(正式名称だろうか)と
       このブログで書いてきた民主主義を超えるものに
       違いがあるのだろうかと思う人がいるだろうか。

       違うものである。


  • 日本は民主主義国家である。
    しかし今、社会主義に非常に強く傾倒してきている。
    以前にも書いたが、社会主義を名乗らずに社会主義政策が進んでいる。

    日本はこのまま社会主義政策が進み、そしてアメリカの軍事力を手放し、軍事力を中国に頼っていくと中国の軍事力によって日本が支配されてくる可能性が高い。
     
    今、国民の多く人は危機感を感じている。
    その多くの人の心の中での叫びは
    「このままでは危ない、でも何とかなるだろう。きっと誰かがなんとかしてくれる」
    そういう言葉が聞こえる。

    しかし、民主主義において国民一人ひとりが選択を与えられているのだ。
    ひとりひとりがその責任も負っているのだと認識しなくてはならない。

    ミャンマー(ビルマ)でおこなわれている軍事政権という権力、統制から国民が民主政治を選びたいという運動がどれほどのエネルギーと時間を費やし、それでも未だ取り戻すことができないことを遠い他国のことだとこの日本に住む人々は思うのだろうか。

    一人ひとりが自らの意思をもち、日本の国を思い、選択をしていかなくてはならない。

    世界のリーダーに送る祈りのことばを以前から仏さまに願っていた。
    そして本日、人々の幸せのために活動している世界のリーダーに祈りの言葉をいただいた。

            Miroku shows the god 21

           「 信仰者よ
             人の幸せのために活動するものよ
             神仏に祈りを奉げなさい
      
            『 この地球を内包する神仏よ
              この愛の星(Planet of love)、地球の神仏よ
              多くの人々の幸せのために我を導きたまえ  』

                      Master of master            」

    この祈りは完成したときに成就する。
    私のこのブログで神仏への祈りの言葉をいただくのはたぶん、これだけであると思う。

  • 私は経済について詳しいわけではないが心の問題からずっと広がりを持たせて考えていくと今の世界不均衡、特にアメリカとアジアの経済不均衡について見えてくるものがある。

    産業分類という言い方をするのだろうか。
    第4次産業が情報なら、今アメリカには第5次を生み出すことができる。
    しかし、今の日本にはできないものだ。

    自由の国、アメリカ
    自由主義ということではまた後日このブログに書いていきたいと思うが自由の国アメリカの経済の衰退について仏さまもそれで善しとしている訳ではない。

      Miroku shows the god 20

    「 米国の経済政策は、
      過去にないものを
      作り出す必要がある。

        それは、
        その問題の中にこそあるのだ。 」

  •    先日、このブログに   「神仏への畏怖 2 みろく神示 17」という題で因果の理法があるから神仏への畏怖の思いが大切であると書いた。

       実はこの神示はもっと前に一度頂いているものでもある。
       それについて本日、ここに原文をそのまま書きたい。
     

          Miroku shows the god 19

         「 因果の理法が宇宙にあるのは
           神仏が人を幸福にしたいから
     
           だからお互い愛し合いなさいと言われた

              Master of master 」

  • このブログで日本のリーダーという言い方をしたことがある。
    今、日本の政治的リーダー、日本の代表として日本内外からみられているのは現政権の総理だろう。
    日本は現在、民主主義国家であり、日本のリーダー、選挙で選ばれ選出された政党、総理ということになる。

    では男女も階級も全て平等であることを思想とする共産主義や共産的な思想の中でリーダーはいるのだろうか、リーダーとは人の上にたつ指導者であり、ある程度の権限をもつ。
    共産主義のなかでは全てが平等であり、たくさんの矛盾をかかえたまま、また神仏という対象も存在しない。

    しかし、思想とは別に過去現在について現実でとらえ、共産主義の中でとらえて考えたらどうだろうか。

    共産主義も組織や国家の形成のためにリーダーはいる。
    当然組織を形成するために必要だということになる。
    では民主主義国家のリーダーという総理と政党、国民というものと共産主義のリーダーと国民とどちらが、現実的に本当に平等に生活しているだろうか。
    民主主義では政治家を目指して政治について学んだ人がリーダーとなっていく。その中では家柄のよい人もいるし、なにより努力した人もいる。
    共産的な考え方ではすべての人が平等に生活、人みな過不足なく平等に生活することを思想とする。
    しかし、共産主義では豊かな人や名家の人を排除しようとする。
    共産的な思想の力や指導力の力の強い人がリーダーとなって組織権力を行使していく。
    また共産的な思想を守ろうとして本来、平等で平和な生活を望む姿があるだろうというものだが軍事力に身につけ、内外、他国から自国を守ろうとする。
    共産主義国家に軍事力のない国があったか。
    社会主義国に軍事力がない国があったか。
    そして民主主義国で軍事力がいらない、他国からの攻撃に無関心なのは日本の国民だけではないか。
    組織、国家のリーダーは権力は本当はどこに違いがあるのか。

    人が幸せになるためのリーダーを選ぶ。
    人の幸せを守るための国家を作る。
    主義思想そのものが新しく作られるものでなくてはならないのだと思う。

  • 日本は治安がよいと言われる。
    世界ではどうだろうか。
    犯罪は各国で様々に起きている。
    振り返ってみて治安のよい日本に犯罪はないだろか。

    沖縄で起きた事件と同じことが日本人の手で日本で起きないことがあるだろうか。
    日本でも各地で犯罪は起きている。
    同じような事件に遭遇したことである人は口をふさぎ、ある人は自ら命をたつこともあるだろう。
    一生苦しみを背負い続ける人が静かに暮らしていることもあるだろう。

    日本の似たような地域で同じような事件は起きないか。
    日本の首都である東京で同じ事件は起きないか。

       Miroku shows the god 18

       「 自由に生きることが許された人よ
         その手を犯罪に染めてはならない。

         犯罪は他の人に痛みを与える。
         何年たってもなかなかその痛みは癒えることはない。
     
         犯罪は自分以外の人の自由を奪い、
         そして深い悲しみや苦しみを与える。
         自らに振り返ってみよ。
         同じことが自らの身に起きてきたら
         その痛みに耐えられるだろうか。
       
        人よ、正しく生きなさい。
        そして他の人を思いやりの心を持ちなさい。
        そのときに自らの心が安らぎに満ちることを
        感じることができるだろう。       」

      
    もし、沖縄に軍事力がなければ、沖縄の人は安心して暮らせるということではない。
    そう思う。

  • 「神仏への畏怖」として「神仏を試すなかれ」「因果の理法を司る神仏」と書いてきた。
    そして3つめに「神仏の秤」について書きたい。

    人はある人が善行をしていると徳があってりっぱだという。
    そして「悪人」と呼ばれている人(例え風評であろうとも)に対してあの人は「悪いことをしたから悪いことがおきて当たり前」だという。
    日本で言ったらバチがあたったというものだろうか。

    神仏の秤はあるのだろうか。
    神仏の秤があったら、その秤は善と悪を分け、一人の人の善と悪と秤に乗せたらどちらが重いかと考えるだろう。

    人は自分の心の中に善悪の秤を持ち、量ろうとする。

    その秤の目盛りは誰によって書かれたものだろうか。
    その秤のどちらかに乗せるかは誰が決めているのだろうか。
    その秤に乗せるタイミングは誰が決めているのだろうか。

    自分の心で自分を秤にかけているのではないか。
    人間の心で他の人の善悪を秤にかけているのではないか。

    善悪を秤にかける。
    これは神仏のされることで人間の心でおこなってよいものではないと思う。
    この世の価値観ではないもの、神仏しかわからないのが事実だと思う。

    人は善を、正しさを選んでいかなくてはならない。
    しかし、それは他の人に求めるものではなく、 まず自分の心に求めるものだと思う。
    他の人の悪を攻める前に自分の心の点検が大切。
    同じものはないか、同じことを心に描いたことはないか、過去においても同じものはないか。

    なぜ、神仏の秤の話かというと人の善悪の真実を知っているのは神仏のみだからだ。
    そういうことで神仏に対して畏怖の心をもつことが大切。

    そして人は神仏の属性をたくさん身につけていくことが大切。
    善を、正しさを選んでいくこと、それは仏性を磨くということ、そしてそれをこの世に顕わしていくことだと思う。

    人として善悪について一番大切なのは一念三千
    自分の心を秤にかけてみるより現在ただ今の自分の心が善悪を分け、正しさを選んでいるかということだと思う。

  • 「神仏への畏怖」ということを「因果の理法」について書いていく。

    神仏は「愛」であるけれどもその崇高さを知れば、「畏怖」するものである。

    人は人生の中で何が正しく、何が間違いか考え、選び取っていかなくてはならない。
    なぜか・・・。
    因果の理法があって地獄に落ちないためか、来世天国に行くためか、そういう個人的なものではない。

    自分自身の原因結果の法則の苦しみの元を修正し、人と人とがお互い幸福になるためにある。

    その「因果の理法」を司るということで人は神仏に対し「畏怖」の心を持たなくてはならないと思う。

       Miroku shows the god 17
     

      「 人よ
        因果の理法があるのは
        神仏が人々を幸福にしたいと
        考えているからである

        だからお互い愛し合いなさい 」

    この地球の仏さま、master of master は「愛」である。 

     

  • 先日のブログで書いた「神仏への畏怖」についてもう少し書きたい。

    神仏は「愛」であるけれどもその崇高さを知れば、「畏怖」するものである。

    「神仏を試す」とは自分は信仰をしているから、だから守られているというものだ。
    「神仏を信仰しているので守られている」というものは、信仰であるが「信仰があるから守られる」というものはそれは神仏を試していることに他ならない。

    「自分は神仏を信仰をしているから守られている。」
    「自分は神仏を信仰があるから守られる。」

    信仰によって守られているのは「神仏にお守りください」という信仰の元の祈りがあって、そして守られたという「結果」を自分で認識できたときに守られているのだと思う。
    そして心から神仏への感謝が生まれる。

    人は軽はずみな言動で人を傷つけることがある。
    また人は間違いを犯すことがある。
    神仏はその間違いの原因をすぐに因果の理法によって本人に結果を与えることはない。
    その人の人生で一番その人の心の成長にとってよいときに現す。
    また自分自身に厳しく、正しさをより求めている人にはその時間の間隔が短いのかもしれない。

    しかし、神仏に対して信仰があるから自分は守られるというものは非常に傲慢で神仏を試していることに他ならない。
    神仏への信仰ではなく、自己満足なのかもしれない。
    そういう考え方は非常に危険だと思う。