「慈悲」ということばに畏怖の思いがある。
「慈悲」は慈しみ悲しむとそのまま・・・。
他にも解釈はあるのだろう。
しかし、今までの仏教の「慈悲」をまるで考えずに今日、考えている「慈悲」について書いてみたい。
「慈悲」の「悲」は「悲しみ」なのだと思う。
仏さまははるか遠くにおられるのではない。
この地球を内包している仏さまがおられる。
もし、自分の体が仏さまであったら、肉体の中のどこかが痛かったり、苦しかったりしたらどうだろうか。
辛いのではないか。悲しいのではないか。
仏さまはまるごと地球の全てを内包しているからだから人間が苦しい時、悲しいとき、自分の身を痛めていてそれが悲しい。
この地球で仏性をもった仏の子が「自由」を与えられ、それによってうれしいことやよかったこともあるが「自由」な故に間違ったこともしてしまう。
その間違ったことをして苦しんでいる人間や悲しんでいる人間を見ていて悲しい・・・。
しかし、ただ悲しんでいるのではない。
その悲しみを慈しみの目で見て「より善きものとなりなさい」と・・・。
そして「人はひとりではない、だから愛し合いなさい、調和して幸福になりなさい」
そう思われているのだと思う。
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