• 現代のコミュニティの形成で人の力だけではできないと書いた。

    様々に起きてくる災害の中で大切ななにかをつかむことが大切と書いた。

    神仏の力でできるのか?
    そうではない。
    世の中が混迷し、また災害やパンデミックな病気が流行する。

    そこで現代のコミュニティが形成されてこなくてはならない。

    できることなら災害も病気の流行もその前にコミュニティが形成されてみんなが大切な何かをつかみとれば被害は最少限になれるのかもしれない。

    最近の日本の地震や災害で発達してきたのはボランティアとそのボランティア組織、そしてその育成だ。

    地震も災害もそしてパンデミックな病気もそのとき、一番最初にあって一番動けるのは地域しかない。
    被害が大きかったり多発すればもっと「地域=コミュニティ」しかない。

    昔昔から互助的なものはあった。
    そうではなく、現代はもっと高度なコミュニティを形成していかなくてはならない。
    そのために福祉が必要なのだ。
    福祉と地域が一体となることが大切なのだ。

  • 現代のコミュニティケアでは家族の力を引き出すことが大切だと書いた。
    家族力はどうしたら築かれるか。

    家族は核家族化している。

    核家族化した家族は別々のものと考えている。
    そうではなく核家族の形のままで世代をつなぐ家族としての強化はできないか。

    現代のコミュニティケアの中でそういう視点で家族力を高めることも大切なのではないか。

  • 無我になると仏さまの世界が現れる。
    神仏の世界には法則がある。

    この法則には発展というベクトルがあるといった。
    時間があり、時間の経過とともに発展がある。
    それが善でもある。

    時間といったらもう一つは空間である。
    空間があり、そこにあるもうひとつのベクトルは調和である。
    世の中に「大調和」という言葉があり、これは善であると言われている。
    しかし「大調和」は時間のベクトルが止まっている状態のことをいう。

    時間と空間
    この二つのベクトル相まって現われているのが神仏の世界でもある。
    その二つがそろって善なのだ。

    そして因果の理法はその中に存在している。

  • 無我になると仏さまの世界が現れてくると書いた。
    神仏の世界には法則がある。
    森羅万象全て神仏の法則に基づいている。

    その法則のひとつに発展のベクトルがある。
    止観して無我となっているだけではいけない。
    生きているということがすでに時間が経過している。
    悟りのために一時的に止観するのは大切だが神仏の世界もまた止観して定まった状態ではないのだ。

    いつまでも無我の中で止観しているとそれ自体がよいものではなくなる。
    停滞は善ではない。
    次の発展の芽を出さなくてはならない。

    神仏は時間を作り、それは発展のベクトルをもって善となしている。



  • きのう「一切衆生悉有仏性」のことを書いた。
    仏性について書き始めてまだまだ途中だった。
    書いても書いても書き足りないのかもしれない。

    仏性は神仏とは何かということとつながっている。

    仏教には「山川草木悉有仏性」ということばがある。
    山川草木というか森羅万象には仏性がある。
    きのう書いた仏性とこの森羅万象の仏性は一緒ではないのか。

    草花としたら草花には正しさ、愛、やさしさ、思いやりがあるだろうか。
    発展や向上があるだろうか。

    ここで思い出してほしいのは人間は万物の霊長と言われていること。

    人間はこの地上の万物の中で一番たくさんの仏さまの性質を持っている。
    他のものより仏さまに近いのだ。
    他のものより仏さまに近い分、人には智慧を与えられた。
    その知恵は本来、万物を生かす知恵なのだ。
    そしてもうひとつ与えられたのは悟りの力。
    仏教で「悟った」といったらそれまでだけれど、小さな悟りは日常の中にある。
    自分の中にあってもあまり表にでてなくてみえてないような仏性にあるとき気がついていき、それが大切だと思うことである。

    仏さまは重重無尽に人と人、人と万物を結んでいる。
    そのものが持っている仏さまの性質の他にこの仏さまから出ている重重無尽の網も仏さまの意志があり、仏さまの意図がある。

    木の葉一枚落ちるも仏さまの意志を感じ取ろう、わかろうと思うとそこには全く違う世界が現われてくる。

    そこには奥深い仏性がある。
    全てのものに仏性があると感じる。





  • 現代は「家族力」が大切と書いた。
    「家族力」はどうしたら築かれるのか? いくつか考えられる。

    そのひとつは現代は家族を法律や制度でしばろうとしている。
    逆に進んでいる核家族化をあたかも時代背景でそうなっているからしかたないと言ってもっと進めていっているようなもの。
    今は核家族だからどうしたらよいかと考えていかなくてはらない。

    家族が力を出せない世の中ならどうしたら家族が力が出せるのかを考えていくことが大切。
    どうしたら家族が法律や制度で力を出せるか、そう考えてほしい。

    そうしたら家族であることがまた喜びにもなると思う。

  • 仏教のことばに「一切衆生悉有仏性」というものがある。
    このことばの意味は全てのものには仏さまの性質が宿っているというもの。

    このことばの意味は深い。

    仏性とは何かを考えたら、仏さまはどういうものかわかることになる。
    仏性は仏さまの時代の仏さまの性質ではない。
    仏性とは神仏とは何かというものにつながっている。

    仏性は神仏の性質なら、社会でいったら普遍的なものを持ちながらその時代、時代にあった正義かもしれない。

    そして個人で言えば善性とも言える。
    正しいことであり、愛であり、やさしさであり、思いやりでもある。
    向上や発展であり、何かを作る力だったりみんなと仲良くすることだったり、人を助けることだったり、感謝することだったり、学んで知恵を身につけることだったり、仏さまがいるんだということだったり、書ききれない・・・

    これはみんなに「これって正しいよね」って聞けば「そうだね」って答えが返ってくること。
    人に迷惑をかけないことだったり、楽しいことだったり悲しいことだったり、辛い時辛抱することだったり、そして他の人のそういう気持ちをわかってあげることだったり…

    人間は様々な個性はあるけど仏性が宿っている。
    だから仏性の出方も個性がある。

    そして人間は私も含めてなかなか器用に生きられない。
    でも不器用に生きながら自分の仏性を大切にしようとしている。

    地域を越え、人種を越えてそれがわかれば人は争いをやめることができるのではないか。

    人はまた他の人を理解できず傷つけあってしまうこともある。
    でも心で感じることは同じことなのだ。
    争いをやめ、仏性等しきを喜びに変えたい。

  • 仏さまの時代、弥勒菩薩、マイトリーは男性だった。
    今でも男性だってたいがいの人は思っているはず。

    私は昔昔、教科書に載っている弥勒菩薩像をみたときに男性だと思わなかった。

    今、広隆寺の弥勒菩薩像をみて確かに男性のように思う。
    でも他にある弥勒菩薩像はなぜか女性?に見えるように思う。

    これには意味があるのだろうか。

  • 現代のコミュニティの要素である家族

    日本はなぜか家族であることが重荷に感じるようになってきている。

    家族だからねってことばをいうことがなかなか難しい。
    家族であることや家族が多いことがなぜか不利に感じられるようになっている。

    大事な価値観を失って表面上だけで様々なものが動かされ続けている。

    もっと大事なものがあるんじゃないのかな。

  • 現代のコミュニティ
    コミュニティケアは個人と地域社会と考えている。

    家族の存在が見えない。
    家族が社会がなんとかしてくれると思っていたら地域は頑張れない。
    家族ががんばっているから地域社会も頑張るのだ。

    何かがおかしい・・・
    家族を大切に思わなかったら家族も社会も形成できないのに。


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