•   本日、以前私に「仏さまのことはわかった、では仏さまと
      つながるにはどうしたらいいのだろうか」と問うた人がいたが
      その人からまたインスピレーションがあった。
      この人は信仰者の一人だと思うが
      「なぜ、私たちに法が説かれるのか」という問いがあった。
      この人は私とつながるという縁があるのだと解釈している。
      この問いについて何かしら書かなくてはならないと思う。

      私自身は現在、ここから大打撃を受けているので
      今と言われると何か書くことはなかなか困難である。
      書きたくないと思うが問われればそのままにすることもできない。

      以前、このブログの「底から光を放つ」ということは
      どういうことかということを書いたとき、
      「諦観の境地」から「真空妙有」へ次元上昇のことを書いたが
      これがこの時にできなかったことは非常に大きいことだと思う。
      「心」のほうから捕らえたら、からまわりを何度もしている。
      どうどうめぐりから抜け出せない。それが全体からみて大きいと思う。

      「法の実践」「心の向上」「悟りを求めること」が大切なことだと思う。
      すでに求めていると言うのなら、大切な何かが欠けている可能性が高い。

      仏さまは愛である。
      しかし仏道を求めた者に仏さまの愛はただ優しい保護的なものだろうか。
      奇跡ばかり起きるものだろうか。
      そうではなく、厳しいものではないか。
      なぜ厳しいか。
      それは仏さまへの道は多くのものを幸せにする道であり
      仏道を求めたことで仏さまからそれだけの期待をされていると
      いうことでもあると思う。
      仏さまのその期待は大きい。
      もし、仏道を求めて世界のリーダーになりたいと祈念した人が
      いたら、その道はたやすいだろうか。
      様々な試練を与えられて、それがその人を鍛え上げて世界のリーダーに
      する近道だとしても本人が最初の自分の祈念したことを忘れ、
      こうじゃなかったと言って、人を恨んだり、世間を攻めても
      なんら得るものはないし、仏さまへの道は開かれていかない。
      ちょうど階段をひとつひとつ上っていくように
      試練を、そのひとつひとつを丁寧に知恵に変えていくことで
      道は開かれていくのではないだろうか。

      それから「知識」や「知恵」に善悪はあるだろうか。
      当然あると答えるだろう。
      例えで表現すると善なる人と悪なる人とそのどちらでもない人と
      同じ「知識」同じ「知恵」を使ってものごとを成していく場合、
      それを成功に結び付けていくために必要なことは何か。
      そのものごとの確実な構成とビジョン、もっと要素が必要だと思う。
      そして同じことをしてもたったひとつのある要素をもって
      善悪をも分けてしまいかねないということが
      あるのではないだろうかと思う。

      仏さまは言われる。

         「 その道、急ぎたくば急いで上ることだ 」

  •   先日の蓮の花をあと2枚

      

      蓮の花に光

     

        

      そしてつぼみを1枚

         

  •  お休みがあったので蓮の花の写真を撮りに行って来た。
     と言っても、いつものとおり写メですが。

     

     このブログに最初の頃「泥中の花」というものを書いた。
     改めてもう一度書いておきたい

     「 泥中の花は自分を磨き、きれいに咲くが、
       泥も根も暗闇の中、もがきながら一生懸命に生きている。
       泥も根も心のどこかで花にあこがれ、花になってみたいと
       思っている。 」 

         

  •     Planet of love

      「 この地球は、愛の星である。

        なぜ、愛の星であるか。
        太陽系の惑星の中で
        太陽のような星を目指しているからである。

        太陽はその光で多くのものを育み、
        そして無償である。
        それは神仏に限りなく近く、そして愛の姿を現す。

        人よ
        あの太陽のように多くのものを育む、
        この地球が愛の惑星であると、
        そういう惑星を目指しているということを
        知っていてほしい。

            Master of Master           」

  •   このブログに何度か「私の握りしめた手」のことを書いてきた。
      「私の悲しみを握りしめたこの手を今世、開くことはないだろう」
      そしてこの握りしめた悲しみはどんなものかということも書いた。

      パンドラの箱を開けたら最後に残ったものは何だっただろうか。
      二通りの説があったと思う。
      私のブログではこの手を握りしめていたら「希望」
      開けばパンドラの箱を開いたときのようになるかもしれない、
      そう書いた。

      このようにブログを書く直前とこう書いてから
      無理やりこの手を開こうとした力を感じた。

      そして私は悲しみのこの手を無理やり開かれようとしたことで
      私自身が握りしめた手の一番奥にあるものを見た。
      パンドラの箱の最後に「希望」が残ったという説があったが
      私の手に最後に残るのは「信仰」だろうと思った。

      私の希望を奪われる苦しみ、そして信仰を奪われる苦しみ
      そして悲しみのこの手を開けばパンドラの箱のように
      なるかもしれないということ
      それは私が悲しみを握りしめながら生きてきた人生の中で
      信仰に出会い、様々なことを通し、
      正しさとは何か、仏さまとは何か、私自身の幸せ、
      人が幸せになるにはどうしたらよいか考えて生きてきた間に蓄積されたもの
      そういうことが苦しみのある他の人の、またこれから苦しみの多い世の中に
      なっていこうとするのならそうならないよう、「希望」になってほしいと思い、
      こののブログを書いているということにつながっている。
      そしてこの悲しみの手を開けば、悲しみのほうが大きくなって
      きっと「希望」を私自身見つけることができなくなる。
      そうするとこのブログを書くことができなくなるのだろうと思った。

      しかし、今起きていることについてたとえこの悲しみの手を開いても
      私はきっと最後の最後まで「信仰」を捨てることはないのだと思った。
      仏さまは20数年前の私が思い出したくない事実を言われる。
      このブログの「自由と犯罪」は私自身の涙と共に書かれたものである。

      私は未来に向かって「幸福の芽」を探していきたい。

      私は仏さまが愛であると思うが、
      また非常に畏怖する存在でもあると思う。
      私自身、仏さまの心に合わないこと自体に非常に怖さを感じている。

  •   本日はこのブログの「日月神示」について書くように
      インスピレーションがあった。

      昨年12月末に突然始まった「日月神示」のインスピレーション
      今未だ、あのとき購入した本は読んでいない。

       「 日と月
         日は光り、世を照らす法となる
         月は日の光を法とし、法を行じ光となる  」
     
       「 日と月はふたつでひとつでなくてはならなかった。
         法を行じ、ふたつがひとつになれば苦しむことはなかった。
         しかしひとつにならなかったから
         みろく神示がおこなわれることになった。  」

      このブログの「日と月」について
      この「日」というものは法を説く者、もしくは組織
      そして「月」とは法を学び、それを行じて光になろうと
      している者、もしくは組織、あるいは法を学ぶ者と
      考えていいのではないかと思う。

      「個人対個人」という感触が私にはない。
      未だ本を読んでみようと思い立つことがないが
      初めて日月神示の「日月」はどういう意味なのだろうかと思った。
      しかし、たぶんこれからもとらわれず書いていくと思う。

      ただ私が強く感じるのはこのブログに書かれている
      仏さまの意識として
        「 日と月の間に地球を内包している仏さまが現れる 」

      霊的存在としての神仏の存在の証明が
      多く含まれていると考えられると思う。

      今年1月1日の朝4時に月食があった。
      そのときのインスピレーションは
      「まず、法を説く者たちから始まる、月が欠ける。
      法を説く者たちがあなたを悪く言うだろう。」
      というものだった。そして私を仏さまの意識が包んだ。

  •   このブログに「自由と繁栄」について書いてきた。
      「天は自らを助くる者を助く」ということについて
      自由競争の中、努力していく者に幸運はやってくると
      いうものだった。

      そしてその努力は仏さまの心にかなっていること、
      「正義、愛」「調和、発展」「公けの幸せや向上を含むこと」などの
      「心」が大切だと書いた。

      人はそれぞれ違う。それぞれの人が努力してこの世の中で結果として
      現れてくるもの、また心の価値として現れてくるもの、その両方を
      バランスよく含んでいるものがあると思う。
      バランスがよければ、長く繁栄していくことが
      可能なのではないかと思う。

      人は成功を求めるとき、もっとも必要なことは「努力」だが
      その先に2つの「機会」があると思う。
      もちろん、もっとあるのだがたくさんの自己実現の本があるので、
      また専門家の方もおられると思うので方向付けが間違わないところで
      おまかせしたい。

      「機会」のひとつは「好運」をつかむこと、チャンスをつかむと
      言ったらよいだろうか。人にはそれぞれの人にどこかでチャンスとか好機とか
      言われるものがある。これは「好運」として掴まなくてはならない。
      だからといって目の前にきたものをすぐに掴めばいいかというと
      そんなことはない。自分に合っているということが大切、
      また世の中そんなに甘い話ばかりでもないというのも最近のことだと思う。

      そしてもうひとつの「機会」は教育の機会を掴むこと、
      教育は機会だろうかという人は恵まれているのかもしれない。
      もちろん「学問としての教育」「技術の教育」「社会性の教育」
      以前書いた「徳知的な教育」などの「機会」「好運」を
      掴むということがあると思う。

      「学問」の機会で経済的に恵まれている人には
      ここのところはなかなか理解がいかないかもしれない。

      少し前に「親力」という言葉が日本に流行ったことを
      覚えている人は多いと思う。
      若い世代で自分の夢が大きく、また自らに可能性を見出せる人は
      この「教育の機会」というものを経済的なもので得られないことは
      非常に大きな苦しみとなる。どうにもならないこともある。
      今、自分はそういうところにいるという人がおられたら
      どうぞ、自力のみで探さず、仏さまにも祈ってください。
      
      また義務教育や徳知的な教育は民主主義で大切なものである。
      義務教育は法律上では「教育を受ける機会の平等」
      ということがあったと思う。

      人は何かを成さんとしたとき、その元なるものを
      学ぶ必要がある。学ぶための機会を作るために様々なやり方が
      あると思うが、自分に可能性があると感じている人はぜひ、
      苦労の多い道でもチャレンジしてほしいと思う。
      人は自分はこういうものを掴んだという「何か」を
      掴んだ人は強い。
      そういう力が繁栄を産み、国力を増していくものだと思う。

      そして国家の政策として教育の場を失わせることがないように
      してほしい。あらゆる人のあらゆる可能性を伸ばしていくためには
      基礎に「教育」「学問」が必要なのだと思う。
      そして現代の世界経済の中で世界のトップリーダーを
      排出していく力、「教育」を国家として持っていないことは
      世界の中で立ち遅れるだけでなく、国力を失うことになると思う。

      日本の未来の繁栄のためにとても大切なことだと思う。

  •   このブログに「自由と繁栄」について書いてきた。
      「天は自らを助くる者を助く」ということばがある。

      私は随分前にたくさんの本を読んだときに
      主に宗教、思想などの本だったが
      自己実現の本も何冊か読んだことがある。
      今すぐに思い出したのは「ゴールデンルール」だった。
      私は昨年10月末にこのブログに
      「天は自らを助くる者を助く」をキリスト教でと
      書いてしまったことをお詫びします。
      先日、ある方からご指摘いただきました。
      ありがとうございました。
      あの日は私にとってまた大きな岐路となった日でもあった。

      以前ブログに書いた内容は
         救済理論としての「自助論」というものだろうか。
         「自分のみが助かりたいという自分だけのことを
         考える人は助からない。自分が苦しみから抜け出たいと
         思ったら、自分も相手もよい方法を選びたい、なんとか
         この問題を解決したいと思うところに解決の道が
         開かれていく。」

      さて、元はギリシャの言葉か「自助論」かと言われる
      このことばの話の前にギリシャと言えば、
      今日の朝から考えていたこと、それはギリシャの哲学者が
      毒杯を飲むシーンだった。この方は追い詰められ、どう考えたか。
      もし、私が私の人生で同じようなシーンにであったら
      どうするだろうか。やはり、毒杯飲むのだろうか。
      今私はそんなシーンに身をおいている訳ではないが
      ギリシャの哲学者がそのシーンで毒杯を飲んだその道を
      選ぶことがわかるように思う。
      今日こんなことを考えているのは、昨日私は知人に
      このブログについて命をかけていると話をしたためかもしれない。

      さて、「天は自らを助くる者を助く」
      自助努力の精神について書いていきたい。
      自らを努力をしていくことで天(God? Heaven?)が
      その努力に報いる如く幸運が導かれる。

      これは成功していく過程で大切な考え方で
      また成功者を目指す道筋にいる人にとって力となり、
      苦しいときにとても力になる言葉であると思う。
      いつものとおり既存の考え方などにとらわれなく書いていきたい。

      仏さまの心に合う自助努力の精神はと考えると
      いくつか心を見つめなくてはならないものがある。

      まず努力をしていない人と努力をしている人いうことがあると思う。
         努力している姿はとても美しい、尊いものに思える。
         努力をしないで何かを得ようとしても難しい。
         他の人が何かをしてくれることも少ない。
         自分で「自分は努力しているのに」と口に出して言う人ほど
         やはり、周りの人の努力を見つめることが大切だと思う。
         いくら権利主張を言ってもなかなか通らないものだと思う。

      そして努力のスケールは何であるかということがあると思う。
         人は皆違う、様々な人がいて様々な人生を歩いている。
         先日書いたが今世心の向上、魂の向上のほうが大きな
         作用として人生を歩いている人もいる。
         自分自身が今世何をしなくてはならないか知る必要がある。
         努力するその力があるが不器用ということもある。
         人それぞれ努力しても結果は同じではない。
         人はそれぞれ違うからである。
         結果のみをみて努力している、いないと図るものではない。
         ではどういうスケールがあるか。
         それは永遠の生命の中、
         本当の努力は仏さまがご存知であるとしか言えない。
         あえて言えば、それは生きている中でその人それぞれの心に
         光となって現れるものではないか。
         努力の結果「言い訳がない、後悔がない、満足感がある」
         そんなことも大切だと思う。

      そして努力の方向付けはどうなのかということがあると思う。
         多くの人は毎日の生活のために努力をしている。
         そしてこの社会のために努力をしている人もいる。
         でも人生の中でいろんな壁にぶつかり、悩み、 
         そしてまたそれを乗り越えていって成功や幸せが
         あるのだと思う。
         人より努力して一時的な成功をつかむことがあることはある。 
         しかし、その努力の方向として仏さまの心に合っていると
         いうことが大切である。
         根本に大いなるものへの信仰ということが必要。
         「正義、愛」「調和、発展」「公けの幸せや向上を含むこと」
         大切なことだと思う。
        
      「自助論」の成功や幸せはがむしゃらに努力するのではなく、
      必要な考え方、方向付け、「心」が必要だと思う。

  •   政府を過去・現在・未来からみて党派を超えて、
      政府が既存の形のままで良いかというと政党ひとつひとつが
      悪いというより、政府の形そのものに問題が生じてきているのではないかと
      考える必要があるのではないだろうか。

      イギリスでも二大政党から変化し今、政府のあり方を検討している。
      どう変化していくだろうか。

      現時点で日本は政党の「公約」として
      選挙前の公約(マニフェスト)はあっても修正が可能であり、
      現政府が昨年の夏、公約としてあげていたものは大きく変化し、
      既にそのものの形が見えなくなっている。
      しかし、公約がゆらぎ、大きく変化してもこの民主主義の中で
      議員内閣制では首相を変更し政策を変更すればまた継続している。
      「公約」についての責任とはどういうものか改めて考えていく
      必要があるのではないか。

      そして政党の「主義・思想」として
      主義・思想が変化していなくとも、政策を大きく変更している。
      昨年の夏の衆議院選挙ではそれが明らかに国民にはみえていなかった。
      やはり、民意を問う必要があるのではないかと考えている人も
      多いのではないだろうか。今回の参議院選の議席でそれをはかるには
      あまりにも大きなことであるように思う。

      今、国民は政府の形そのもののあり方に疑問をもっていると
      考える必要があるのではないだろうか。

      そして「三権分立」について
      このブログに何度か書いているが今までの政治のありかたでは
      すでに改革が困難であると考えられるのではないだろうか。
      「三権分立」で行政府の力が大きすぎることが
      根本的な問題なのではないか。
      前政権が小さな政府を目指したときも地方分権の形はとったが
      結局行政府の力が分権できていなかったということが
      浮き彫りになってきているではないだろうか。
      そして「大きな政府」により行政府の力は大きくなり問題が生じ、
      そして改革として「小さな政府」の地方分権で行政府の力も
      小さくなるはずだったがそうはいかなかった。
      それが日本の現状ではないだろうか。

      今までどおりのやり方をやっていくと立法府は選挙があり
      人事が変わるが行政府は内部人事はあるが大きく変わることはない。
      現政権も今、行政府のことで公務員改革として少し前の検討だが、
      内閣人事局が法により行政府の人事をおこなうことを考えている。
      立法府に権力が大きくなるとやはり三権分立が成り立たなくなっていく。
      このブログに何度か書いたが三権分立のバランスがくずれている。
      しかし立法府である内閣人事局の力が大きくなると独裁的な政治になり、
      民主主義が成り立たなくなる可能性が高い。

      以前、視点として書いたが米国の大統領制では
      選挙前の公約が大切であり、大きな責任を大統領が追うことになる。
      そして責任をもって政治をおこなっていくことになる。
      主義・思想については選挙前に明らかにしていただかなくては
      ならないものだと思う。
      米国の大統領制ではもちろん議員内閣制ではない、
      そして国自体がたいへん大きい。
      「三権分立」の形を継続するために議会ではなく、
      大統領に「行政府」に対する人事権があると
      いうことがある。立法府は選挙に伴い変化、
      行政府は大統領により変化が可能なのである。

      今、日本の政府の形そのものに改革が求められるときではないか。
      それには米国の大統領制を日本の形に変化していくこと、
      またそれに近い形を新たに形成していくことが望ましいのではないか。

  •   今、日本での雇用政策、来年度の失業問題など
      国家、国民にとって大切なことだと書いてきた。

      仕事をしていて楽しくてしょうがないという人は
      少ないのではないだろうか。
      仕事は人が生きていくために必要なものである。
      そしてコミュニケーションも社会の中で必要である。
      人は一人では生きてはいない。

      日本では産業革命の頃だろうか。
      労働者は「労働力」である。
      自分は「会社の歯車のうちのひとつでしかない」
      「コマのひとつでしかない」そういうことが言われていた。
      今でもそう思うときもあるかもしれない。
      しかし、仕事もコミュニケーションもその人を
      表現している大切なものでもある。
      自分を守り、家族を守っていくためにも必要である。

      より個性を重視されるような時代に
      より高度な、より新しい技術を求められるような時代に
      そしてサービス事業が展開されている時代に
      経営で大切なものは「適材適所」であると思う。

      逆にひとりの人が仕事をしていく上で
      「職業選択の自由」があることは、
      様々なことでより多くの利益を生むことになると思う。
      自分に合った、少なくても嫌いではない仕事をするとで
      仕事に対する意欲が出て、よい仕事ができ、
      そして忍耐強く仕事をしていくことができる。

      特に福祉の仕事は人と人の間で成り立つ仕事である。
      もし、全く違う仕事をしていた人が失業したからといって
      福祉の仕事をしなくてはならないとき
      それを継続していくことは可能だろうか。
      よい仕事ができないばかりか、なかなか難しいのではないかと思う。

2026年4月
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930