•   「 神の見えざる手  invisible hand of God 」
      この言葉自体が自由の中、利益のみを肯定していく
      信仰なき姿にもみえるのではないかと書いた。
      この先を急いだ人がいただろうか。
      「神の見えざる手」の意味はこの地上の人に与えらるものが
      神の手により分配されていくというもの、
      自由主義経済が発展していくと結果として
      全体の利益が達成されるというものだった。

      自由主義で自らに能力があり努力した資本家たちが、
      自分の得た利益は自分のものとし、栄えている。
      (雇用関係の中で不当かどうかということもあると思うが)
      しかし、経済成長の中、そう言われていたのに
      労働者や貧困者、また競争に負けたものには
      一向に「神の見えざる手」によって分配がない。
      「神がおられるなら分配があるはずなのに、
      おかしい。自分たちも努力しているのに分配がない。
      神はいないのではないか。
      ならば我々の手で平等に分配したほうがよい。
      資本家たちは我々の分も窃取しているから
      我々の手で平等にしなくてはならないと考えたのではないか。

      資本家たちは「神の見えざる手」という言葉を
      使うことで「神の見えざる手」によって分配されるから
      得た利益を自分のものとして享受していてよいと考え、
      一方で国民は「神の見えざる手」によって分配がないから
      自分たちの手で平等に分配すべきだと考えた。
      どちらも信仰なき姿に見える。

      しかし、国家の経済の話をするとき「神の見えざる手」の
      「神」は本当の神が言われたことではなく、人間が
      作った言葉であることを忘れているのではないか。
      ここにひとつの言葉による呪縛が存在する。

        Miroku shows the God  23
     
       「 人よ
         繁栄の道は発展と調和の中にあるのである

         それはお互いの存在を認め合い
         大切に考えるところから始まる

         私によって分配されるのではなく
         あなたがたがお互い幸福になる道を
         選ぶところにあるのだ 

             Master of Master        」

  •   「罪」というと「悪いことをした」ということだと思うが、
      最近また、このブログの「幸福の芽」の題名そのものに関係ある、 
      私自身の幸福の芽について書いたブログと同じようなことだと
      思うような感触のあることがおきた。

      その人は何か勘違いをしたのだろうか。
      人の痛みがわからないのだろうか。
      濡れ衣をきせられた感触がある。

      さて生まれてこのかた、私自身が聖人のように生きたかと
      言えばそんなことはない。
      暗闇の中、迷い、苦しみ、「何が正しいのか」を考えた。
      そして一番苦しいときに「幸福の芽」を見つけた。

      その後、様々な本を読んだ。
      本当に正しいことって何だろうと考えていた。
      「因果の理法」と「仏さまがおられる」と実感するまでに
      3年くらいかかった。

      そんなことを考えながら
      本日の沖縄普天間基地の首相の声明について
      考えたことがあった。

      「悪と知って犯す罪」と「わからずに犯す罪」
      どちらのほうが罪は重いか。
      知っていておこなう罪は悪いことをしたという
      意識があるのでその認識ですでにその人自身が善悪を
      分けているという事実がある。
      「わからずに犯す罪」は現在3とおりくらいに
      考えられるところだが、現在の首相について
      このことばを考えてみた。

      沖縄普天間基地のことで「迷走」と言われた
      首相自身は悪いことを考え、行うようにはみえない。
      そういうと多くの人はうなずくのではないだろうか。

      しかし沖縄の迷走については結果をみて
      国民は「悪い」と捕らえるのではないか。
      これもその人自身からみたら「わからずに犯す罪」の
      ひとつであると考えていた。
      迷走の罪はやはり、人々の痛みとして残ってしまった
      ことがあるだろう。「罪」は及ぼした影響の大きさでも
      あると思う。


  •   最近はあまり聞かなくなってきたが
      「小さな政府」ということについて書いていきたい。

      当たり前だが、日本は民主主義国家である。
      しかし今、社会主義に非常に強く傾倒してきている、
      社会主義を名乗らずに社会主義政策が進んでいる。
      以前こう書いたことがあった。
      私は経済に詳しいわけではないので詳細は
      専門家の方におまかせします。

      現政権はもともと「地域主権」と言っても
      実際、政策では「大きな政府」になろうとしている。
      やがてそれは社会主義になっていくと思う。

      少し前に自民党は「小さな政府」ということばは
      使わないと言っていたと思う。
      このことばは国民には理解しがたいことばでも
      あると思うが、自民党は「小さな政府」の負の部分を
      理解してたのかどうなのか。

      現在の日本は民主主義の中、「大きな政府」「小さな政府」
      どちらを選ぶかということではないと思う。
      まず、国家財政がどうあるか、
      「大きな政府」は経済成長期のものであるのではないか。
      逆のときに「小さな政府」というものが
      でてきたのではないか。
      現政権のように国家財政が見込めないときに
      「大きな政府」を実行し、国家財政で福祉の充実を
      図ろうとすると負担は企業のみではなく、
      国民に向かっていく。
      これを所得の再分配というのかどうか。

      また、前政権で「小さな政府」を実行し、
      現実的に問題が見えてきていた。
      現政権はそのいくつかの問題を確実に
      つかんでいたことがあると思う。

      「小さな政府」の中、
      いかに「大きな政府」の良さを取り入れることが
      できるかということが求められていると思う。
      これを「中くらいの政府」というのかどうか。
      これが現政権の「地域主権」と結びつくかといわれたら、
      結果は違うものになると思う。

      この新たなシステムは普遍的に継続できるもので
      なくてはならない。

      このブログの「現代のコミュニティ」は
      ここにも関係のあるものである。

      民主主義の「大きな政府」を超えて
      平等のもとに雇用、福祉政策、企業の公営化が
      進んでいくと社会主義になっていく。

      しかし、現在の日本は軍事力がないためにまず、
      日本を守れなくなる可能性が大きいと
      いうことを忘れてはならないと思う。

  •    「 神の見えざる手  invisible hand of God 」
       について先日このブログに書いた。
       このことについてはまだ書きたいことがいくつかある。

       自由主義、競争原理で経済成長が進んだとき
       この後、100年くらいで世界恐慌があった。

       「神の見えざる手」とは自由主義経済が
       発展していくと結果として全体の利益が
       達成されるというもの、
       「神の見えざる手」の意味はこの地上の人に
       与えらるものが神の手により分配されていくと
       いうものだとも言える。

       しかし、この言葉自体が
       自由の中、利益のみを肯定していく
       信仰なき姿にもみえるのではないか。

  •    *日記です*
       今日は私自身の悲しみの日
       この手ににぎった悲しみをさらに硬く握りしめて
       またあの弥勒菩薩像、泣き弥勒を思い出していた。

       「心」を大切にする。
       目に見えない「思いの世界」を大切にする。

       
       今日、日本から離れたミャンマー(ビルマ)から
       「心」が届いた。
       「大切なもの・・・」

       *追記
        この手ににぎった悲しみについて思い当たったことがあった。
        以前、日月神示の本を買ったときのインスピレーション、
        このブログの中のみろく神示 Miroku shows the God の
        きっかけとなったもの
        「 日と月はひとつになれなかった 」
        日月神示の本も未だ開いてはいない。

  •   九州から悲しみの心が届いてくる。

      まず、現実的に解決に向けて全力に進んでいくことが
      大切、一人の力ではできない。

      先日、因果の理法について書いた。
      今日は、「心」について書いていく。

      日本の九州で起きていることについて
      現時点で言えることは、
      一番は国家としてのリスクマネジメントだと思う。
      危機管理より、危機察知の「心」と考えていいと思う。
      日本を守るということ、
      どうすることが一番よかったのか精査してほしい。

      それから後々に考えてほしいと思うのは
      国家財政の使い方である。
      先日、「神のみえざる手」はあるのかということを
      このブログに書いたが、
      国税の使い方について現政権の問題提起が含まれている。
      国家としてのお金の流れについて考えてほしい。
      (特に子ども手当だと思われる)

      そして国民全体にある国や他者への無関心についての
      警告がある。沖縄の普天間移設についての無関心、
      今回の九州のことについての無関心、
      国民ひとりひとりが国を大切に考えるという
      「心」が大切。

      そして最後に沖縄の人々その関係する人々から
      今回の九州のことがどうみえているか。
      
      簡単なことではないその「心」に日本を大切に
      考えていくという未来を見たい。

  •    過去、現在をみていくと「経済成長」を安定して
       おこなっていくには「自由」が与えられている中で
       「発展」と「調和」を目指すことにあると思う。

       米国の「自由主義」の考え方について書いていく。

       逆に捕らえると「発展繁栄」していくのも自由だが
       何もしないのも自由だ。
       「自由」の実現のためには他からの「不干渉」と
       個人の「自己決定」が必要になる。

       「自己決定」には個人の「責任」が伴う。
       他からの「不干渉」が「自由」であるなら、
       米国の社会保障制度の受け入れは経済の再分配を
       受け取るというということは「干渉」を受け入れ、
       「不自由」になる。

       ここで国家が社会保障をおこなうときに
       最も必要なものは何か。
       国家の財政のみではない。
       最も必要なのは「雇用政策」なのだと思う。
       本来、人間は共同生活の空間で
       仕事をしたいと思っている。
       社会保障によって生きていくことより
       自らが生産性を生み出したいと考えている。
       またそうあるべきだと考えている。

       社会保障によって生活した場合
       「干渉」を受けるが
       それと同時に「就労したい」と考えるのだと思う。
       「仕事をしたいが仕事がない」
      
       「雇用政策」は違うことばで言えば「経済の発展」
       結果としての経済成長がある。
       国家が政策としてしなくてはならないことである。

  •   過去、現在をみていくと「経済成長」を安定して
      おこなっていくには「自由」が与えられている中で
      「発展」と「調和」を目指すことにあると思う。
      先日、もう少し「自由」について書きたいと書いた。

      この「自由と繁栄」の締めくくりは
      ひとつの意味で「民主主義を超えるもの」となる。
      それが明らかにブログに書くことになるのは
      未だ先で「時」が必要としたときだと思う。

      米国の「自由主義」の考え方について書いていく。

      逆に捕らえると「発展繁栄」していくのも自由だが
      何もしないのも自由だ。
      「自由」の実現のためには他からの「不干渉」と
      個人の「自己決定」が必要になる。
      
      「自己決定」には個人の「責任」が伴う。
      他からの「不干渉」が「自由」であるなら、
      米国の社会保障制度の受け入れは経済の再分配を
      受け取るという社会主義ととらえられる、
      そしてその分、再分配を受ける方は「干渉」を受け、
      「不自由」となるということを受け入れると
      いうことになる。

      まだ、この続きを書いていきたい。

  •   「自由主義」についてもっとブログを書いていきたいと
      思いながらなかなか進んでいない。

      九州から悲しみの心が届いてくる。

      まず、現実的に解決に向けて全力に進んでいくことが
      大切、一人の力ではできない。

      このブログで「因果の理法」について書くことがあるが、
      個人の因果の理法の本当の意味を知っているのは
      仏さまと個人と相対自したときにわかるもの、
      その本人を元に紐解かないと 他人ではなかなか
      本当の理解をすることは難しいと思う。
      因果の理法は悟りのためにあり、他者が個人を傷つけたり、
      その人の苦しみをより一層深くするためにあるものではない。

      「因果の理法」と共に言われるのが「業― カルマ」だが
      カルマは個人としてとらえるものと
      その時代、時代、その国、環境により大きな意味での
      カルマがある。

  •   先日、民主主義で大切なものは「教育」「知識」「良識」
      そして「正しい情報」と書いた。
      今の日本に最も足りないものは「良識」の共有だと思う。

      子育てが家庭の中で行われる時間がかなり減少してきている。
      親の背中をみて育つということがなくなってきている。
      子どものときに世の中の「常識」「良識」の教育がなくなった。

      共産主義では共産主義の思想の教育が行われる。
      宗教的には時代によって善悪が強く出ている
      宗教があったり、ある時代には「愛が大切」と
      いう宗教があり歴史の中でいろいろな考え方が教育されている。
      仏教があり正しさと心の修養、また人の道として
      孔子の考え方があった。そして今まで継承されてきている。
      その時代に生きる人の仏さまの性質「仏性」を
      引き出してくるために時代時代の精神がある。

      では、日本はどうか。
      今、現在生きていくうえで何が正しいか考えることを
      教育として考えているか。  
      道徳的な教育を捨てて何年になるか。
      それが今、国家衰退を招くほどの事態を招いたと
      考えられるのではないか。
      何が正しいか、どう考えるのが正しいかということを
      考えなくなってきているのではないか。

      自由を享受するために、また現在の民主主義の
      国家を継続するためには世の中の「常識」「良識」の
      教育は必要である。

      世の中の犯罪の低年齢化や
      いじめの問題にしても
      言葉はいかにしても「徳知的な教育」は必要であるとそう思う。

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