•   他の人が愛されたら愛はなくなるものだろうか
      このことで人は悩むのだと思う。

      例えば子どものときに親から他の兄弟より愛されなかった。
      辛い・・・
      本当に辛い思い出があって兄弟も許せない。

      例えば恋人、自分より他の人を選んだ、自分を愛してくれない。
      辛い・・・
      本当に辛くて生きているのも苦しい。

      例えば友人、自分が仲良くしたいと思っているのに、
      他の人と仲良くって自分が置き去りにされているように思う。
      辛い・・・
      どうしていいかわからない。

      例えば社会の中で、ある人に自分が認められたいって思うけれど
      自分に気がついてくれない、自分の評価が低い。

      愛してほしいって思っても自分の思うように愛してもらえない。

      親はかけがえのない存在、
      なぜか自分だけがかわいがられなかった。
      親は自分の人生に関係が深いから
      自分がその親をその家庭を選んで生まれてきていると
      考えるほうが間違っていないと思う。
      子どもの頃だからいろんなことがわからない。
      自分が親になったときに初めて親の気持ちが理解できた、
      そういう人は多い。

      恋人、自分の手に入れたい、束縛したいけれどできない。
      その恋人は一生の伴侶でないかもしれない。
      世の中にはもっと自分に合う人がいるのかもしれない。
      そう考えていくと人は自分に合った人に後にめぐり合う。

      そして友人、友人も自分がその友人を束縛したいって思えば
      思うほど、きっと離れていってしまう。
      自分だけの思いが強すぎて窮屈なのかもしれない、
      もっとゆったりとすることが大切なときもある。

      社会の中で認められない、評価されないって
      自分で思っているけれど、周りの人はその人の力を
      じっと見ているところかもしれない。
      周りの人は評価できるかどうか考えている最中なら
      努力していきながら忍耐力が必要かもしれない。

      少し、心の向きを変えていつもの自分と違うところから
      考えてみること、人生の中で大切なことだと思う。

  •   ニューエイジという言葉があるが、
      いつもどおり既存の考え方にとらわれず書く。

      私はニューエイジは「心の時代」であると考えている。
      仏さま(Master)がおられ、そして心の時代 が到来する。

       仏さまは言われる。

          Miroku shows the GOd 31

         「人よ
          自らの心の仏性を信じよ
          新しい時代の創造が始まっているのである

          そして次世代を創る青年たちよ
          あなたがたの心に響き、きらめく
          その仏性を大切にしなさい
     
          様々なことが起きてくる中
          新しい価値観の創造がはじまっているのだ。

               Master of Master      」

  •   先日から携帯TELのカメラで撮った蓮の花を
      載せています。
      見ればわかると思いますが、素人です。

         

         この世にて この世にあらず 咲く蓮華
              仏の光 我が身に灯す   

      歌も素人です。
      ちょうど仏教の言葉にある「自灯明法灯明」でしょうか。

       

      

      泥中の花について先日書きましたが
      蓮華の花は仏教のことばで
      「上求菩提下化衆生」につながっていくと思うのです。
      
      これはインドの頃の僧団の言葉ですから上は仏さまですから
      信仰のある人ならそれで大丈夫だと思いますが
      今、日本で上とか下とかいう表現は適切でないかもしれません。
      「上求菩提下化衆生」これについて
      今度「心の時代に生きる 2」で書きたいと思います。

         

  • *日記です*

    このブログを長く読んでくださっている方は今どきになんてひらがなが多い文章だろうと思っている方がおられるでしょう。

    先日も内容がかなり重かったものに「ものごとを成功させるには」という題でブログを書きました。

    今は日常的にほとんどPCでしか文字を書きません。

    ですから変換していくのでいくらでも漢字で書けるのですがなぜ、ひらがなかというとただひらがなが好きなのです。

    日本のいろは 「 いろはにほへどちりぬるを・・・ 」

    ひらがなの曲線や品、優しさが好きです。

    漢字が多い文章より「心がほぐれる」と思うのです。

    ひらがなは日本にしかない文化の大切なもののひとつではないのでしょうか。

    政治的なこと今までたくさん書いてきました。

    「自由と繁栄」まだまだ書き足りないのです。

    書いている途中になっているものもあります。

    他にも書きたいことがあります。

    しかし、今は悲しみのほうが大きくてブログの更新はしていきたいと思いますが、政治のことなかなか書き始めることできません。

    この悲しみの手を開きたくないと強く思っています。

    仏さまがおられますから。

    泣き弥勒像を思い浮かべ、なぜあのような悲しい表情をしているのか、ふと考えています。

    今私に起きていること、こんな冷酷で残酷なこと、もうこれ以上、他の人に起きないことを祈念します。

    これ以上続けてはいけない。

  •   本日、以前私に「仏さまのことはわかった、では仏さまと
      つながるにはどうしたらいいのだろうか」と問うた人がいたが
      その人からまたインスピレーションがあった。
      この人は信仰者の一人だと思うが
      「なぜ、私たちに法が説かれるのか」という問いがあった。
      この人は私とつながるという縁があるのだと解釈している。
      この問いについて何かしら書かなくてはならないと思う。

      私自身は現在、ここから大打撃を受けているので
      今と言われると何か書くことはなかなか困難である。
      書きたくないと思うが問われればそのままにすることもできない。

      以前、このブログの「底から光を放つ」ということは
      どういうことかということを書いたとき、
      「諦観の境地」から「真空妙有」へ次元上昇のことを書いたが
      これがこの時にできなかったことは非常に大きいことだと思う。
      「心」のほうから捕らえたら、からまわりを何度もしている。
      どうどうめぐりから抜け出せない。それが全体からみて大きいと思う。

      「法の実践」「心の向上」「悟りを求めること」が大切なことだと思う。
      すでに求めていると言うのなら、大切な何かが欠けている可能性が高い。

      仏さまは愛である。
      しかし仏道を求めた者に仏さまの愛はただ優しい保護的なものだろうか。
      奇跡ばかり起きるものだろうか。
      そうではなく、厳しいものではないか。
      なぜ厳しいか。
      それは仏さまへの道は多くのものを幸せにする道であり
      仏道を求めたことで仏さまからそれだけの期待をされていると
      いうことでもあると思う。
      仏さまのその期待は大きい。
      もし、仏道を求めて世界のリーダーになりたいと祈念した人が
      いたら、その道はたやすいだろうか。
      様々な試練を与えられて、それがその人を鍛え上げて世界のリーダーに
      する近道だとしても本人が最初の自分の祈念したことを忘れ、
      こうじゃなかったと言って、人を恨んだり、世間を攻めても
      なんら得るものはないし、仏さまへの道は開かれていかない。
      ちょうど階段をひとつひとつ上っていくように
      試練を、そのひとつひとつを丁寧に知恵に変えていくことで
      道は開かれていくのではないだろうか。

      それから「知識」や「知恵」に善悪はあるだろうか。
      当然あると答えるだろう。
      例えで表現すると善なる人と悪なる人とそのどちらでもない人と
      同じ「知識」同じ「知恵」を使ってものごとを成していく場合、
      それを成功に結び付けていくために必要なことは何か。
      そのものごとの確実な構成とビジョン、もっと要素が必要だと思う。
      そして同じことをしてもたったひとつのある要素をもって
      善悪をも分けてしまいかねないということが
      あるのではないだろうかと思う。

      仏さまは言われる。

         「 その道、急ぎたくば急いで上ることだ 」

  •   先日の蓮の花をあと2枚

      

      蓮の花に光

     

        

      そしてつぼみを1枚

         

  •  お休みがあったので蓮の花の写真を撮りに行って来た。
     と言っても、いつものとおり写メですが。

     

     このブログに最初の頃「泥中の花」というものを書いた。
     改めてもう一度書いておきたい

     「 泥中の花は自分を磨き、きれいに咲くが、
       泥も根も暗闇の中、もがきながら一生懸命に生きている。
       泥も根も心のどこかで花にあこがれ、花になってみたいと
       思っている。 」 

         

  •     Planet of love

      「 この地球は、愛の星である。

        なぜ、愛の星であるか。
        太陽系の惑星の中で
        太陽のような星を目指しているからである。

        太陽はその光で多くのものを育み、
        そして無償である。
        それは神仏に限りなく近く、そして愛の姿を現す。

        人よ
        あの太陽のように多くのものを育む、
        この地球が愛の惑星であると、
        そういう惑星を目指しているということを
        知っていてほしい。

            Master of Master           」

  •   このブログに何度か「私の握りしめた手」のことを書いてきた。
      「私の悲しみを握りしめたこの手を今世、開くことはないだろう」
      そしてこの握りしめた悲しみはどんなものかということも書いた。

      パンドラの箱を開けたら最後に残ったものは何だっただろうか。
      二通りの説があったと思う。
      私のブログではこの手を握りしめていたら「希望」
      開けばパンドラの箱を開いたときのようになるかもしれない、
      そう書いた。

      このようにブログを書く直前とこう書いてから
      無理やりこの手を開こうとした力を感じた。

      そして私は悲しみのこの手を無理やり開かれようとしたことで
      私自身が握りしめた手の一番奥にあるものを見た。
      パンドラの箱の最後に「希望」が残ったという説があったが
      私の手に最後に残るのは「信仰」だろうと思った。

      私の希望を奪われる苦しみ、そして信仰を奪われる苦しみ
      そして悲しみのこの手を開けばパンドラの箱のように
      なるかもしれないということ
      それは私が悲しみを握りしめながら生きてきた人生の中で
      信仰に出会い、様々なことを通し、
      正しさとは何か、仏さまとは何か、私自身の幸せ、
      人が幸せになるにはどうしたらよいか考えて生きてきた間に蓄積されたもの
      そういうことが苦しみのある他の人の、またこれから苦しみの多い世の中に
      なっていこうとするのならそうならないよう、「希望」になってほしいと思い、
      こののブログを書いているということにつながっている。
      そしてこの悲しみの手を開けば、悲しみのほうが大きくなって
      きっと「希望」を私自身見つけることができなくなる。
      そうするとこのブログを書くことができなくなるのだろうと思った。

      しかし、今起きていることについてたとえこの悲しみの手を開いても
      私はきっと最後の最後まで「信仰」を捨てることはないのだと思った。
      仏さまは20数年前の私が思い出したくない事実を言われる。
      このブログの「自由と犯罪」は私自身の涙と共に書かれたものである。

      私は未来に向かって「幸福の芽」を探していきたい。

      私は仏さまが愛であると思うが、
      また非常に畏怖する存在でもあると思う。
      私自身、仏さまの心に合わないこと自体に非常に怖さを感じている。

  •   本日はこのブログの「日月神示」について書くように
      インスピレーションがあった。

      昨年12月末に突然始まった「日月神示」のインスピレーション
      今未だ、あのとき購入した本は読んでいない。

       「 日と月
         日は光り、世を照らす法となる
         月は日の光を法とし、法を行じ光となる  」
     
       「 日と月はふたつでひとつでなくてはならなかった。
         法を行じ、ふたつがひとつになれば苦しむことはなかった。
         しかしひとつにならなかったから
         みろく神示がおこなわれることになった。  」

      このブログの「日と月」について
      この「日」というものは法を説く者、もしくは組織
      そして「月」とは法を学び、それを行じて光になろうと
      している者、もしくは組織、あるいは法を学ぶ者と
      考えていいのではないかと思う。

      「個人対個人」という感触が私にはない。
      未だ本を読んでみようと思い立つことがないが
      初めて日月神示の「日月」はどういう意味なのだろうかと思った。
      しかし、たぶんこれからもとらわれず書いていくと思う。

      ただ私が強く感じるのはこのブログに書かれている
      仏さまの意識として
        「 日と月の間に地球を内包している仏さまが現れる 」

      霊的存在としての神仏の存在の証明が
      多く含まれていると考えられると思う。

      今年1月1日の朝4時に月食があった。
      そのときのインスピレーションは
      「まず、法を説く者たちから始まる、月が欠ける。
      法を説く者たちがあなたを悪く言うだろう。」
      というものだった。そして私を仏さまの意識が包んだ。