混沌とした時代の中で
今月3日の夕方、少し山に登って
夕日の写メを撮った。

その時のインスピレーションは
「さまざまな悲しみを握りしめたまま、
今世生きていくがよい。それが人を救うことになるから」
そして遙かな意識から「使命である」と。
私の悲しみを握りしめたこの手を
今世開くことはないだろう。
そして悲しみのこの手の何もかも全てを
包み込んでいる仏さまがおられる。
はるかな意識に永遠の真理がある。
混沌とした時代の中で
今月3日の夕方、少し山に登って
夕日の写メを撮った。

その時のインスピレーションは
「さまざまな悲しみを握りしめたまま、
今世生きていくがよい。それが人を救うことになるから」
そして遙かな意識から「使命である」と。
私の悲しみを握りしめたこの手を
今世開くことはないだろう。
そして悲しみのこの手の何もかも全てを
包み込んでいる仏さまがおられる。
はるかな意識に永遠の真理がある。
仏道を求めるなら、仏さまを求めながら
今の時代を生きていくことが大切だと思う。
仏教のことばに「三諦円融」というものがある。
そのことについて書いてみたい。
三諦は三つの真理、
「空諦」― この世の価値観から離れ、仏さまの世界が
あるという真理
「仮諦」― 仏さまの世界があるが一たん否定した今生きている
この世があるも真理
「中諦」― 二つの真理はあるがそれぞれの中でだけ真理があるの
ではない、だからその二つの中に真理がある。
今の時代を生きていくには「空諦」、「仮諦」そして
「中諦」の三つの真理を円融して生きていくことが大切であり、
その中で仏さまの意図を感じ取っていかなくてはならない。
仏さまは愛であり、このときの愛はそれぞれの人がそれぞれの
人の悟りを得て、心の向上を目指すことにある。
そしてこの個人の心の向上が社会に反映していくことが大切。
仏さまの意図を感じ取って、
または仏さまの意図にできるだけ添って今の時代を
生きていくことが大切であるとそう思う。
昨日のブログの最後に「次元上昇」について書いたときに、
仏道修行についても書きたかったので今日、書いておきたい。
仏道に入る人はどういう人であるか。
インドでお釈迦さまは「四苦」から悟りを求められた。
苦しみの原因は何か。
仏道に入る人は仏道に入るときにどうしてそうしようと
したかという「発心」が大事なのだと思う。
神仏に至る道は今私が認識しているのは二通りある。
ひとつは「仏さまとはどういうものなのか、悟りを得たい。」
もうひとつは「人を救っていきたい、愛を実践して神に
近づいていきたい。」あるいは「公のために正しさを求めたい。」
どちらも「無我」― 我を無くしていき、神仏と一体と
なる道で求めていく道が違う。
そして「発心」がやがて修行の中でこの世の中に
通じていくものになるのだと思う。
「無我」の境地は何もないのではない。
あらゆる私心をなくしていくと仏さまの心が満ちる。
そういうものだと思う。
「発心」がないのであれば求めて得られるものもないのでは
ないか、「発心」として自分のために、この世の価値観で
求めたものではその道の途中に気づかなくてはならないものがある。
この発心そして求道し、心が調和することが大切
満月のように欠けることなく、
自分の過去、現在において人間関係が調和している状態
(寺に修行されている方やお釈迦さまの時代の心の調和と
通常の生活をしながらの仏道を求めている人と
調和の求め方が異なると思うが。)
この状態自体が「次元上昇」だが
きのう、最後に書いたもう一段の「次元上昇」の
元になるものになると思う。
「底から光を放つ」とはどういうことだろうかと考えた人が
いただろうか。仏さまの世界からもう少し書いてみたい。
心の時代へのパラダイムシフト3で「心の価値」に目覚めるとは、
今ある常識や価値観から「心が大切」という価値観に変換が
起きてくる、パラダイムシフトがおきてくることになると書いた。
次から次へと苦しいことばかりつづく。苦しみがわが身に
押し寄せてくることがある。
「なぜ、自分に、自分のところにこんな不幸がやってくるのだ、
こんなはずはない」と思う。誰を恨んでも呪っても物ごとは
解決しないことに気がつく。そしてどんな努力をしても
壁が立ちはだかり、解決の道を見出せない。
にっちもさっちもいかず、とうとう苦しみのどん底に
きてしまった。あらゆる努力が無駄になってしまった。
苦しみの底に落ち込んでしまった。
こんな苦しみのどん底の底を打ち破ると光が出てくる。
この光はまさに価値観の変換を生むことになる。
集団(組織)でおきてきたらその集団で小さなパラダイムシフトが
起きる。国家でおきたら時代の精神、時代の奔流となる。
仏教のことばに「諦観の境地」ということばがある。
このブログの最初に仏教についてかなり書いてきた。
そのときもそうだが既成の意味についてはとらわれずに書いていく。
仏さまに信仰があったり、まだ自分が気がつかないけれど
仏さまとの縁が深い人の場合、苦しみが続き、次から次へと
壁が出てきてどうしても進めない、どうにもならない
そういうときは「諦観の境地」に至っていると思う。
どん底の境地、あきらめの境地である。
この境地になる人は自分では気がついていてもいなくても
「正しく生きたい、努力してなんとかしたい」と思っている。
あるいは長い苦しみの中、何かを恨んだりしていたが
何かのきっかけで強くそう考えるようになった状態である。
自分自身がこの苦しみの境地にいるということを自分に
つきつけられた状態。どうにもならない。
しかし、「諦観の境地」は単なるあきらめの境地ではない。
あきらめてその苦しみの人生を受け止めて生きるのではなく
あきらめて「心の価値」に目覚めるためにあるのだ。
仏さまはこの「諦観の境地」に至った苦しみ、悲しみの
深い人のすぐ近くにおられる。私がすぐ近くにいることに気が
ついてほしいと思っておられる。
このときに大きな宗教的な目覚めを求めることが大切、
自分は仏さまの心に合っていなかったのではないか、
この世の価値観だけで成功を求めていたのではないか、
自分さえ良ければよいという考え方が強く、
他の人の気持ちを考えたことがなかったのではないか、
自分のみを生かそうとしていたのではないか、
他の人の存在自体を否定していたのではないか、
因果の理法をひもとける人はひもといてみるといいと思う。
どん底を打ち破ると光がでる。
仏教のことばで「真空妙有」― 真に仏さまの世界を
悟ったら、この世が妙なる世界にみえてくる。
個人の悟り(心)の修行とこの世がつながっていき、
そこに仏さまの意図がみえてくる人もいるだろう。
今までの自分と決別し真理と共に生きて生きたいと強く
思うようになり、そしてそういう生き方をしていくようになる。
今までの自分の、自分たちの価値観が通用しない境地から、
その中でやがて大きな気づきを得て「心の価値」に目覚める。
これがたぶん、私がブログを書き始めてから知った
「次元上昇」「アセンション」というものになるのだと思う。
そしてこの先にもう一段の「次元上昇」の考え方がある。
いつかこのブログに書くことになると思う。
「自由」と「自由主義」について書いてきたが
まだいくつか書きたいことがある。後日つづけていく。
本日どうしても「正しさと愛」について書きたい。
私は18年前にある会場で「正しさと愛と両方が大切」と
言ったことがある。正確に言えば「精神世界」の話になる。
その内容についてここに書いておきたい。
「正しさ」というと気の引き締まる思いをするのは
私だけではないと思う。
「正義」といったらどうだろうか。
その時代時代の「正義」があると以前このブログに書いた。
「正しさ」は個人的な道徳的なものに近いと思うが
「正義」というと公の義としての「正しさ」、
「正義」というと「悪を罰する」とか「罪を犯した者への罰」
ということも考える。
宗教的な人は「正義は勝つ」ということばが
好きな人も多いと思う。
ひとつの事柄について「正邪を分かつ」ということで
「正義」はどうかということがある。
事柄の起きたときは正邪を分けて「正義」であっても
その「正義」を公に現すとき、大切なのは手段である。
相手が間違っているといって、そう言っている行為が
「正義」からずれていってしまった場合、
それは最初の「正義」そのものにも不消化な部分が
残ってしまう。
「正義」を現すときにそれを勝負で勝ったという
「結果だけの正義」を求めてしまうとその過程の中で
多くの間違いが生じて今の民主主義の世界では
納得ができない、何かおかしいと思うということが出てくる。
そのときも仏さまは言われた。
「結果のみが大切なのではない、その過程が大切なのだ」と
それはそれにかかわる多くの人に良い影響を
与えていくものになるからである。
「軍事力」について書き添えておくと
このブログに「軍事力」についてたくさん書いてきたが、
では自らが正しいと言って「先手必勝」とばかりに
先制攻撃をすることは正義だろうか。
これも以前このブログに書いたが政治的には
「エンカウンター」ということがある。
民主主義下ではまず、「話し合いをおこない解決に向かう」
ということがなされてきている。
その結果がいかなるものになるかはその進行によって
異なってくると思う。
「正しさ」はまず、自らの「仏性」を見出すために
自分に求めるものだ。そして他者に対して教育として
人が社会的に共に環境で生きるために必要なものでもある。
「正義」を考えるとき、「正しさと愛の両方が大切」
このときの愛は誰かに何かをしてあげるというもの
ではなく、「時間」というものを含み、
「慈悲」「慈愛」という「育む心」というものになる。
仏さまは言われる。
Miroku shows the God 22
「 人よ
他者の成長の過程で「寛容」であれ
また自らも間違うことがある、
他者に寛容であれ
そしてお互いよりよき生活をしていくために
自らもそして他の人も利するということが
大切なのだ 」
きのうに引き続き「自由」について
書いていきたい。
「市場原理主義」から「市場の失敗」
そこに国家が介入した。
(昨日経済政策を書かなかったので足して)
「経済政策」と「福祉政策」である。
詳細は専門家におまかせします。
米国では「自由」を求める声が多い。
日本のように米国が福祉政策を進めようとすると
「国家対企業」となる。日本と同様にしようとすれば
企業が保険、年金など社会保障を担うことになるからだ。
(日本以外でも)
今、日本は国の財政困難で更に企業に重税をかけていくと
西欧でみられるように「企業」自体が企業自身のものから
「国営企業」にまで変化することが考えられる。
社会主義国になる。
多額の給料をもらっているひとは平均にならされ、
無職の人は仕事を与えられ
今日本に多い定職についてない人たちも
義務で働くことになる。
「自由な発想」や「競争原理」が働かなくなり
また時間をへて「国営企業」から民間に変化したりする。
日本では「軍事力」の問題がない場合だ。
過去、現在をみていくと「経済成長」を
安定しておこなっていくには「自由」が
与えられている中で「発展」と「調和」を
目指すことにあると思う。
後日もう少し「自由」について書きたい。
自由主義について先日書いたが
続いて書いていく。
「 神の見えざる手 invisible hand of God 」
ということばがある。
「自由」は多くの発想を生み、競争原理も働き、
そしてそれを実行していくことで
「富」を多く生み出すことができる。
「神の見えざる手」とは自由主義経済が
発展していくと結果として全体の利益が
達成されるというものだ。
しかし、実際は市場原理主義による弊害や
社会問題がおき、「市場の失敗」という結果を
みることになる。
そして福祉政策として国家の介入が必要になった。
ではこのとき「神の見えざる手」はなかったのか。
神仏はこの世の中を時間の中で
「調和」と「発展」をめざすように考えておられる。
「発展」は「自由」の中人間にまかされているのだろうか
「調和」については神仏の手が差し伸べられるのだろうか。
自由主義経済で「発展」ばかりに心が
向いてしまってはいけない。「調和」と「発展」とを
目指していくことが大切なのだ。
「自由」というものも、この「調和」と「発展」について
考えていかなくてはならない。
そこに神仏の心にかなった「繁栄」がある。
「生老病死」、人には避けられない苦しみがある。
「依他起生」、人は人に依って生きている。
そして人は皆、個性をもち、様々な人生を歩んでいる。
もっとも大切なのは個人の「努力」だと思う。
しかし、全ての人がその人の「努力」のみでは
どうにもならないものがあるのが事実である。
そこに福祉が必要となる。
哲学や宗教を考えるとき
人はもともと善なるものなのか、それとも悪なのか
そういうことから始まることがある。
過去の宗教にそれぞれ考え方があると思う。
時代時代の認識が作用したこともあったと思う。
先日からのブログで民主主義と共産主義について
書いてきた。以前、ブログの中で民主主義は
仏さまの思いに合っていると書いたこともあった。
民主主義は根本に国民の良識が必要なのだ。
この良識は「人には仏性がある、仏さまと同じ性質がある」と
いうものと一致している。
昨日のブログの最後に民主主義には「教育」と
そして「知識」と「良識」が必要だと書いた。
もうひとつ大切なものは「正しい情報」である。
国家組織のリーダーについて先日このブログに書いた。
民主主義と共産主義のリーダーの違いは何か。
もう少し書いていきたい。
主義思想ではなく、独裁主義というもの、
軍事政権というものがある。
軍事政権は主義思想からではなく
軍事力を手にしたリーダーを中心として
組織を作った人たちが国を制圧していく。
独裁主義はカリスマ性のある人物、
または政権の中で権力、軍事力を手に入れた特定の人が
出てきた場合、それによって制圧して形成されていく。
一定の間全体主義のかたちをとることがある。
独裁主義も軍事政権も国民は「支配」を受けることになる。
そして元来平等を求める共産主義は
他国に対する軍事力を強化していくことで国民を
「支配」している。ここには矛盾が生じているが現実である。
国家組織にリーダーは必要である。
国民が幸せになるリーダーとは何か。
逆の視点で考えれば軍事政権、独裁主義のリーダーは
根本に人を国民を自分の思いどおりにしたい、
支配したいという心がある。
では軍事力をもった民主主義政権下で国民が
「支配」を受けず、民主的な中で
自由を与えられているのはなぜか。
当たり前だといわれるかもしれないが現時点で
三権分立を取り入れているからだ。
(三つのうちの何かが権力を強くもつようになると
「民主」が守れなくなるが)
今、「自由」を享受している国民は「自由」が
なくならないとわからないかもしれない。
また「自由」がないと思う国民は「自由」と
いうことがどれほどの幸福かと思うだろう。
そして民主主義が独裁になるときは
どんなときか書いていきたい。
ひとつは全体主義的な思想を打ち出した人が
権力(軍事力)を手にしたとき、
それから一政党が大きくなりすぎて、法そのものを
自由に変えることができるようになったときである。
一政党が最大権力をもったとき、法そのものを変更し、
独裁主義を作っていくことが可能になってしまう。
日本のように軍事力を他国に依っている国は
ある一定のものを越えて利害関係が成立しなくなった場合、
他国からの支配を受けるということにもなる。
「自由」は「支配」を受けない代わりに必要なものがある。
それは「教育」であり、「知識」と「良識」である。
日本は「自由」を失わなければ
「自由」というものがどれほどありがたいか
わからないのだろうか。