•   このブログに「自由と繁栄」について書いてきた。
      「天は自らを助くる者を助く」ということについて
      自由競争の中、努力していく者に幸運はやってくると
      いうものだった。

      そしてその努力は仏さまの心にかなっていること、
      「正義、愛」「調和、発展」「公けの幸せや向上を含むこと」などの
      「心」が大切だと書いた。

      人はそれぞれ違う。それぞれの人が努力してこの世の中で結果として
      現れてくるもの、また心の価値として現れてくるもの、その両方を
      バランスよく含んでいるものがあると思う。
      バランスがよければ、長く繁栄していくことが
      可能なのではないかと思う。

      人は成功を求めるとき、もっとも必要なことは「努力」だが
      その先に2つの「機会」があると思う。
      もちろん、もっとあるのだがたくさんの自己実現の本があるので、
      また専門家の方もおられると思うので方向付けが間違わないところで
      おまかせしたい。

      「機会」のひとつは「好運」をつかむこと、チャンスをつかむと
      言ったらよいだろうか。人にはそれぞれの人にどこかでチャンスとか好機とか
      言われるものがある。これは「好運」として掴まなくてはならない。
      だからといって目の前にきたものをすぐに掴めばいいかというと
      そんなことはない。自分に合っているということが大切、
      また世の中そんなに甘い話ばかりでもないというのも最近のことだと思う。

      そしてもうひとつの「機会」は教育の機会を掴むこと、
      教育は機会だろうかという人は恵まれているのかもしれない。
      もちろん「学問としての教育」「技術の教育」「社会性の教育」
      以前書いた「徳知的な教育」などの「機会」「好運」を
      掴むということがあると思う。

      「学問」の機会で経済的に恵まれている人には
      ここのところはなかなか理解がいかないかもしれない。

      少し前に「親力」という言葉が日本に流行ったことを
      覚えている人は多いと思う。
      若い世代で自分の夢が大きく、また自らに可能性を見出せる人は
      この「教育の機会」というものを経済的なもので得られないことは
      非常に大きな苦しみとなる。どうにもならないこともある。
      今、自分はそういうところにいるという人がおられたら
      どうぞ、自力のみで探さず、仏さまにも祈ってください。
      
      また義務教育や徳知的な教育は民主主義で大切なものである。
      義務教育は法律上では「教育を受ける機会の平等」
      ということがあったと思う。

      人は何かを成さんとしたとき、その元なるものを
      学ぶ必要がある。学ぶための機会を作るために様々なやり方が
      あると思うが、自分に可能性があると感じている人はぜひ、
      苦労の多い道でもチャレンジしてほしいと思う。
      人は自分はこういうものを掴んだという「何か」を
      掴んだ人は強い。
      そういう力が繁栄を産み、国力を増していくものだと思う。

      そして国家の政策として教育の場を失わせることがないように
      してほしい。あらゆる人のあらゆる可能性を伸ばしていくためには
      基礎に「教育」「学問」が必要なのだと思う。
      そして現代の世界経済の中で世界のトップリーダーを
      排出していく力、「教育」を国家として持っていないことは
      世界の中で立ち遅れるだけでなく、国力を失うことになると思う。

      日本の未来の繁栄のためにとても大切なことだと思う。

  •   このブログに「自由と繁栄」について書いてきた。
      「天は自らを助くる者を助く」ということばがある。

      私は随分前にたくさんの本を読んだときに
      主に宗教、思想などの本だったが
      自己実現の本も何冊か読んだことがある。
      今すぐに思い出したのは「ゴールデンルール」だった。
      私は昨年10月末にこのブログに
      「天は自らを助くる者を助く」をキリスト教でと
      書いてしまったことをお詫びします。
      先日、ある方からご指摘いただきました。
      ありがとうございました。
      あの日は私にとってまた大きな岐路となった日でもあった。

      以前ブログに書いた内容は
         救済理論としての「自助論」というものだろうか。
         「自分のみが助かりたいという自分だけのことを
         考える人は助からない。自分が苦しみから抜け出たいと
         思ったら、自分も相手もよい方法を選びたい、なんとか
         この問題を解決したいと思うところに解決の道が
         開かれていく。」

      さて、元はギリシャの言葉か「自助論」かと言われる
      このことばの話の前にギリシャと言えば、
      今日の朝から考えていたこと、それはギリシャの哲学者が
      毒杯を飲むシーンだった。この方は追い詰められ、どう考えたか。
      もし、私が私の人生で同じようなシーンにであったら
      どうするだろうか。やはり、毒杯飲むのだろうか。
      今私はそんなシーンに身をおいている訳ではないが
      ギリシャの哲学者がそのシーンで毒杯を飲んだその道を
      選ぶことがわかるように思う。
      今日こんなことを考えているのは、昨日私は知人に
      このブログについて命をかけていると話をしたためかもしれない。

      さて、「天は自らを助くる者を助く」
      自助努力の精神について書いていきたい。
      自らを努力をしていくことで天(God? Heaven?)が
      その努力に報いる如く幸運が導かれる。

      これは成功していく過程で大切な考え方で
      また成功者を目指す道筋にいる人にとって力となり、
      苦しいときにとても力になる言葉であると思う。
      いつものとおり既存の考え方などにとらわれなく書いていきたい。

      仏さまの心に合う自助努力の精神はと考えると
      いくつか心を見つめなくてはならないものがある。

      まず努力をしていない人と努力をしている人いうことがあると思う。
         努力している姿はとても美しい、尊いものに思える。
         努力をしないで何かを得ようとしても難しい。
         他の人が何かをしてくれることも少ない。
         自分で「自分は努力しているのに」と口に出して言う人ほど
         やはり、周りの人の努力を見つめることが大切だと思う。
         いくら権利主張を言ってもなかなか通らないものだと思う。

      そして努力のスケールは何であるかということがあると思う。
         人は皆違う、様々な人がいて様々な人生を歩いている。
         先日書いたが今世心の向上、魂の向上のほうが大きな
         作用として人生を歩いている人もいる。
         自分自身が今世何をしなくてはならないか知る必要がある。
         努力するその力があるが不器用ということもある。
         人それぞれ努力しても結果は同じではない。
         人はそれぞれ違うからである。
         結果のみをみて努力している、いないと図るものではない。
         ではどういうスケールがあるか。
         それは永遠の生命の中、
         本当の努力は仏さまがご存知であるとしか言えない。
         あえて言えば、それは生きている中でその人それぞれの心に
         光となって現れるものではないか。
         努力の結果「言い訳がない、後悔がない、満足感がある」
         そんなことも大切だと思う。

      そして努力の方向付けはどうなのかということがあると思う。
         多くの人は毎日の生活のために努力をしている。
         そしてこの社会のために努力をしている人もいる。
         でも人生の中でいろんな壁にぶつかり、悩み、 
         そしてまたそれを乗り越えていって成功や幸せが
         あるのだと思う。
         人より努力して一時的な成功をつかむことがあることはある。 
         しかし、その努力の方向として仏さまの心に合っていると
         いうことが大切である。
         根本に大いなるものへの信仰ということが必要。
         「正義、愛」「調和、発展」「公けの幸せや向上を含むこと」
         大切なことだと思う。
        
      「自助論」の成功や幸せはがむしゃらに努力するのではなく、
      必要な考え方、方向付け、「心」が必要だと思う。

  •   政府を過去・現在・未来からみて党派を超えて、
      政府が既存の形のままで良いかというと政党ひとつひとつが
      悪いというより、政府の形そのものに問題が生じてきているのではないかと
      考える必要があるのではないだろうか。

      イギリスでも二大政党から変化し今、政府のあり方を検討している。
      どう変化していくだろうか。

      現時点で日本は政党の「公約」として
      選挙前の公約(マニフェスト)はあっても修正が可能であり、
      現政府が昨年の夏、公約としてあげていたものは大きく変化し、
      既にそのものの形が見えなくなっている。
      しかし、公約がゆらぎ、大きく変化してもこの民主主義の中で
      議員内閣制では首相を変更し政策を変更すればまた継続している。
      「公約」についての責任とはどういうものか改めて考えていく
      必要があるのではないか。

      そして政党の「主義・思想」として
      主義・思想が変化していなくとも、政策を大きく変更している。
      昨年の夏の衆議院選挙ではそれが明らかに国民にはみえていなかった。
      やはり、民意を問う必要があるのではないかと考えている人も
      多いのではないだろうか。今回の参議院選の議席でそれをはかるには
      あまりにも大きなことであるように思う。

      今、国民は政府の形そのもののあり方に疑問をもっていると
      考える必要があるのではないだろうか。

      そして「三権分立」について
      このブログに何度か書いているが今までの政治のありかたでは
      すでに改革が困難であると考えられるのではないだろうか。
      「三権分立」で行政府の力が大きすぎることが
      根本的な問題なのではないか。
      前政権が小さな政府を目指したときも地方分権の形はとったが
      結局行政府の力が分権できていなかったということが
      浮き彫りになってきているではないだろうか。
      そして「大きな政府」により行政府の力は大きくなり問題が生じ、
      そして改革として「小さな政府」の地方分権で行政府の力も
      小さくなるはずだったがそうはいかなかった。
      それが日本の現状ではないだろうか。

      今までどおりのやり方をやっていくと立法府は選挙があり
      人事が変わるが行政府は内部人事はあるが大きく変わることはない。
      現政権も今、行政府のことで公務員改革として少し前の検討だが、
      内閣人事局が法により行政府の人事をおこなうことを考えている。
      立法府に権力が大きくなるとやはり三権分立が成り立たなくなっていく。
      このブログに何度か書いたが三権分立のバランスがくずれている。
      しかし立法府である内閣人事局の力が大きくなると独裁的な政治になり、
      民主主義が成り立たなくなる可能性が高い。

      以前、視点として書いたが米国の大統領制では
      選挙前の公約が大切であり、大きな責任を大統領が追うことになる。
      そして責任をもって政治をおこなっていくことになる。
      主義・思想については選挙前に明らかにしていただかなくては
      ならないものだと思う。
      米国の大統領制ではもちろん議員内閣制ではない、
      そして国自体がたいへん大きい。
      「三権分立」の形を継続するために議会ではなく、
      大統領に「行政府」に対する人事権があると
      いうことがある。立法府は選挙に伴い変化、
      行政府は大統領により変化が可能なのである。

      今、日本の政府の形そのものに改革が求められるときではないか。
      それには米国の大統領制を日本の形に変化していくこと、
      またそれに近い形を新たに形成していくことが望ましいのではないか。

  •   今、日本での雇用政策、来年度の失業問題など
      国家、国民にとって大切なことだと書いてきた。

      仕事をしていて楽しくてしょうがないという人は
      少ないのではないだろうか。
      仕事は人が生きていくために必要なものである。
      そしてコミュニケーションも社会の中で必要である。
      人は一人では生きてはいない。

      日本では産業革命の頃だろうか。
      労働者は「労働力」である。
      自分は「会社の歯車のうちのひとつでしかない」
      「コマのひとつでしかない」そういうことが言われていた。
      今でもそう思うときもあるかもしれない。
      しかし、仕事もコミュニケーションもその人を
      表現している大切なものでもある。
      自分を守り、家族を守っていくためにも必要である。

      より個性を重視されるような時代に
      より高度な、より新しい技術を求められるような時代に
      そしてサービス事業が展開されている時代に
      経営で大切なものは「適材適所」であると思う。

      逆にひとりの人が仕事をしていく上で
      「職業選択の自由」があることは、
      様々なことでより多くの利益を生むことになると思う。
      自分に合った、少なくても嫌いではない仕事をするとで
      仕事に対する意欲が出て、よい仕事ができ、
      そして忍耐強く仕事をしていくことができる。

      特に福祉の仕事は人と人の間で成り立つ仕事である。
      もし、全く違う仕事をしていた人が失業したからといって
      福祉の仕事をしなくてはならないとき
      それを継続していくことは可能だろうか。
      よい仕事ができないばかりか、なかなか難しいのではないかと思う。

  •   人は人と違う。
      年齢も男女も顔も声も容姿も全て違う。
      同じ人はひとりもいない。
      皆同じだったらこの世界も成り立たない。
      神仏は調和と発展を求めるが全ての人が同じで平等だったら
      発展していくことは少ない。

      先日、男女のことを書いたが、
      ひとりひとりの容姿についても同じことだ。
      また様々な障がいについても同じことだと思う。

      永遠の生命の中、今世のこの転生をその人自身、
      どのような心の向上、魂の向上を目指してきたかによって
      様々なその人の課題として運命的に人生を歩いていることもある。

      しかし、だからこそこの世の価値観から離れ、心の向上を
      目指さなくてはならない。

      美しい女性がいてもその心がその人をどう表現しているか、
      例え美しいとは言えなくてもその心が愛や感謝に満ちていたら
      その人をどう表現しているか。
      格好のよい、頭の良い男性がいてもその心が
      その人をどう表現しているか。
      例え格好がよいとは言えなくても頭が普通の人でも徳があれば
      その心がその人をどう表現しているか。

      外見がとても気になる年頃を過ぎると
      周囲の人はその人を包んでいる雰囲気を感じ、
      その人を表現するようになる。

      人はその内に秘めた自分の良いところ、すなわち仏性を
      自分で見つけ出した数だけ光と放つようになる。

         Miroku shows the God 30

        「 人よ
          この世は永遠の生命の中、
          魂の向上を目指すためにある。
       
          苦しいこともあるだろう
          辛いこともあるだろう
          しかし本来、人は心の向上のために
          転生輪廻をしているのである。

          人よ
          対比の中で苦しむなかれ。
          今世自分が生きている意味を見出し、仏性を見出し
          そしてその心から光を放つのだ。
     
          その光を私が見ていることを知っていてほしい      
          魂の向上はあなたがたの喜びであり、私の喜びでもある。
        
               Master of master                  」

  •   今の世界経済の不均衡、特にアメリカとアジアの経済不均衡に
      ついて以前このブログに書いたことがある。
      米国は第5次産業を生み出すことができるのではないか、
      それは今の日本にはできないものだと書いた。

      今日「米国の経済政策」としたが、国家の経済として考えなくては
      ならないこと、この日本にも同じことがあると思うので
      そのことを書いていきたい。
      以前にも書いたが私は経済に詳しくない。
      細かいところは専門家の方にまかせたい。

      国家とは大きく考えて「政治(外交を含む)」「経済」「社会保障」「国防」、
      普天間移設基地でこのブログにで「軍事力」について自国を護るということを
      書いてきた。経済、資本についても自国を護るということが大切である。

      EUのこともこのブログに書いてきたがアメリカ合衆国との大きな違いは
      「自由」であることを護ろうとする国民の心、そしてフロンティアな精神や、
      努力が報われる国、自国を護ろうとする国民の心ではないか。

      元にもどり、米国の経済を考えるとき、世界経済の中での「自由」に限界が
      あるのだと思う。日本は米国と経済的なつながりが強い。随分前に日本も
      ドル固定が変動になった、そういうときもあった。
      しかし、今もっと広い世界経済を考えたとき、米国の自由が
      やがて損失を生んでいくのではないかと考えることは難くない。  
      アジア経済の興隆の前でかつての国家介入の経済の統制ではないが、
      自国の経済を護ることを考えていかなくてはならない。
      過去、「軍事力」が国家を護り、世界を護るということあり、
      現在もそうだが、しかし世界経済の不均衡が大きく動いてくると
      米国の軍事力にその不均衡が関係していくようにみえる。

      日本は軍事力はないが今まで経済の力が大きく国を  
      護ってきていたと思う。
      米国は「経済」「軍事力」があるが
      日本は「経済」はあっても「軍事力」がない。
      世界経済の不均衡の中、日本は自国を護れるのだろうか。

      現在 考えられていることは前向きに「技術」「開発のスピード」
      であると思うが、そこにもっと新しい考え方を打ち出していく
      必要があるのではないか。

      そして現時点でできる大切なのは自国の地盤をしっかり
      固めて護っていくそういう政策づくりだと思う。

  •   今年の元旦に月食があった。
      日月神示の話の直後だったので朝4時月食を見ていた。
      昨日また月食があり、また12月にもあるという。
      あいにく昨日は雨模様で日本の北と南でしか見えなかったようだ。

      ただ、私にとって「恐れ」があった。
      何か起きるようなそんな気がして・・・。
      そして祈っていた。

      日と月の間の地球
      地球という星にも意識体がある。
      その意識体について今日の祈りとずっと前に一度感じたことがある。
      今日の祈りのインスピレーションは「奇跡」ということばだった。

      世の中に様々な予言があると思う。私は以前も書いたが
      ノストラダムスの予言くらいしか読んでなく、
      またちょっとした機会で目にするごく普通のものしか知らない。

      ただ起きるべくして起きるものについては信仰による「奇跡」がある。
      信仰はただ信じるだけでなく、このブログによく書いているが、
      法を行じる、実践しなくては何にもならない。
      多くの人が心の向きを変え、自他共に幸福になろうとすること
      そういう人が増えていくこと。

      そして本日もうひとつ、その地震自体に大きな意味、神仏の意図の
      あるものもあるが、その他に地球は次の時代への準備として
      地殻の変化もしているのだというものだった。

      祈りは力である。
      人は全ての力を失ったとき仏さまから
      「信仰による祈り」をいただいており、
      その祈りが本物なら次の扉が開いていくのだと思う。

  •   
      人は人と違う。
      年齢も男女も顔も声も容姿も全て違う。  
      同じ人はひとりもいない。
      皆同じだったらこの世界も成り立たない。
      神仏は調和と発展を求めるが全ての人が同じで平等だったら
      発展していくことは少ない。
      同じ人はひとりもいないのに共産主義では全て平等に
      しようとした結果、階級、情報の統制、そして結局は
      もっとも差別を生んでしまったのではないだろうか。

      共産主義思想ではひとりひとりは同志であり、男女も平等、
      そして女性は子どもを産みたがらないように思う。

      ひとりひとりは他の人と違う。
      世界では様々な人種差別の問題もある。
      日本は現在男女別姓の議論をしているが本当に必要なのだろうか。
      この日本においてすでに男女差別の問題は
      かなり解消されてきていると思う。

      この「みろく」というブログを書いている私は女性である。
      以前もこのブログに書いたが弥勒菩薩はインドの時代、
      男性だったと思う。
      私がこの世の中で自己実現していくとき「女のくせに」と
      いうことばを何度か耳にしたように思う。

      日本は全く男女平等がなくなった訳ではないが、
      参政権、社会進出によって起きた社会での差別なども
      あったと思うが現代社会では本当に男女別姓の議論が必要だろうか。
      すでにその議論は随分前に行われていた。
      なぜ今また男女別姓の問題なのだろうか。

      求める人たちは社会的立場がある人に限られていくと思う。
      現在の日本の民主主義では普通に生活している多くの人には
      あまり関係がないのではないか。
      今、男女差別でこの問題をとりあげるのではなく、
      男女別姓を求めるのは明らかに共産主義か社会主義思想に
      よるものではないか。
      議論の根本は男女別姓ではないのではないか?
      今、なぜという疑問についての答えがでない。

      全てのものには仏性があり、
      この仏性があるということについて人は皆等しい。

      男女もまた等しく仏性があり、男女がそれぞれの特性を持ち、
      光を放っている存在である。

         Miroku shows the God 29

      「 人よ
        男女それぞれの特性を輝かせ、
        共にお互いの存在を大切に生きよ

        そしてあなたがたは人を愛するということを知るために
        男と女がおり、共に幸せの道を歩むことができることを
        大切にするがよい

        それぞれがそれぞれの光を放ち、生きていくのだ。

           Master of Master              」

  •  

      今、日本は参議院選挙の時を迎えている。
      多くの政党から公約が発表されている。
      今回の公約ほど政治に「情熱」を感じたことはないように思う。

      永遠の真理というと「永遠の生命」、「普遍なる価値」
      このブログによく書いている「調和と発展」というものがある。
      他に大切なものはまた時々に書いていきたい。

      今日、「無限に良きものを」ということを考えていた。
      ことばを変えれば、「無限の向上」これも永遠の真理であると思う。

      私自身、争いや競争を好まない。
      日常的なところでそういう場面になるとその場を
      丸くしていきたいと考えていく。
      随分前に私の友人にその話をしたら
      「そんなことはないでしょう」と言われ、考えたことがある。

      私の場合は自分の興味関心のところでという限定がつくが
      「無限に良きものを」求めるところがある。
      そのことで競い合って誰かを蹴落としたりしたいと思わない。
      ただ、自他共にアンフェアなことはやはり違うと思っている。

      競争社会で仏さまの心に合っていることとはと考えると
      競争の中でフェアなものであること、
      少なくともアンフェアなことがないこと、
      できるだけ人を害していかないこと、
      人との比較の中に自らをおいて人を見下し、
      自分を引き上げるようなことに終始心を止めないこと。

      そこにあるものはお互いの存在を認め合い、
      より良きものを創り出していくことではないかと思う。

           Miroku shows the God 28

       「 人よ
         
         無限の向上を目指せ。
         それが私とあなたがたを結ぶものでもあるのだ。

             Master of Master               」

  •   永遠の真理のことを先日書いたが
      永遠の真理の大きなものは「永遠の生命」であると思う。
      随分前にこのブログに「永遠の生命」について書いたことがある。
      神仏はこの宇宙を創った。そして法を編んだ。
      私たちは仏さまによって作られ、転生輪廻を繰り返している
      存在である。
      
      以前このブログに書いたことは
        人間には死んでも残る「魂」というものがある。   
        この死んでも残る「魂」は私が大切って言っている「心」   
        生きているときにいう「心」が「魂」とつながっている。   
        このひとりひとりの「心」が、より仏性を高め、深めようと   
        この世とあの世を転生輪廻して永遠の生命の中、   
        経験を積み、知恵を磨いている。   
        それは神仏にとってもそれは喜びなのだ。   
        今、生きていると苦しみも多いが乗り越えた経験ができて   
        そしてより多くの人を理解できるようになって
        深みのある達成感があるのだ。   
        「心」を磨き、「魂」が無限の成長をしている。

      よく悪いことをしたり、悪いことして利益を得たり、
      我欲が深くて人のことを考えない人に何でバチがあたらないのかと
      言う人がいる。

      因果の理法はこの世とあの世を貫いて正邪を分けている。
     
      この世で悪をおこなっている行為が他の人からみて
      すぐに罰として現れないことがある。
      あの世があり、心と行いに応じた地獄があり、
      この世を去った世界までいって仏さまの目で善悪を分けられる。

      永遠の生命は違った観点からみると
      人は多くの経験を積んでいく中で過ちを犯すが
      また改めるとやり直すことができる。

      仏さまは人の「心」の成長を喜びとしてまた「許し」ということがある。

      永遠の生命は永遠の真理である。