先日、このブログに 「神仏への畏怖 2 みろく神示 17」という題で因果の理法があるから神仏への畏怖の思いが大切であると書いた。
実はこの神示はもっと前に一度頂いているものでもある。
それについて本日、ここに原文をそのまま書きたい。
Miroku shows the god 19
「 因果の理法が宇宙にあるのは
神仏が人を幸福にしたいから
だからお互い愛し合いなさいと言われた
Master of master 」
先日、このブログに 「神仏への畏怖 2 みろく神示 17」という題で因果の理法があるから神仏への畏怖の思いが大切であると書いた。
実はこの神示はもっと前に一度頂いているものでもある。
それについて本日、ここに原文をそのまま書きたい。
Miroku shows the god 19
「 因果の理法が宇宙にあるのは
神仏が人を幸福にしたいから
だからお互い愛し合いなさいと言われた
Master of master 」
このブログで日本のリーダーという言い方をしたことがある。
今、日本の政治的リーダー、日本の代表として日本内外からみられているのは現政権の総理だろう。
日本は現在、民主主義国家であり、日本のリーダー、選挙で選ばれ選出された政党、総理ということになる。
では男女も階級も全て平等であることを思想とする共産主義や共産的な思想の中でリーダーはいるのだろうか、リーダーとは人の上にたつ指導者であり、ある程度の権限をもつ。
共産主義のなかでは全てが平等であり、たくさんの矛盾をかかえたまま、また神仏という対象も存在しない。
しかし、思想とは別に過去現在について現実でとらえ、共産主義の中でとらえて考えたらどうだろうか。
共産主義も組織や国家の形成のためにリーダーはいる。
当然組織を形成するために必要だということになる。
では民主主義国家のリーダーという総理と政党、国民というものと共産主義のリーダーと国民とどちらが、現実的に本当に平等に生活しているだろうか。
民主主義では政治家を目指して政治について学んだ人がリーダーとなっていく。その中では家柄のよい人もいるし、なにより努力した人もいる。
共産的な考え方ではすべての人が平等に生活、人みな過不足なく平等に生活することを思想とする。
しかし、共産主義では豊かな人や名家の人を排除しようとする。
共産的な思想の力や指導力の力の強い人がリーダーとなって組織権力を行使していく。
また共産的な思想を守ろうとして本来、平等で平和な生活を望む姿があるだろうというものだが軍事力に身につけ、内外、他国から自国を守ろうとする。
共産主義国家に軍事力のない国があったか。
社会主義国に軍事力がない国があったか。
そして民主主義国で軍事力がいらない、他国からの攻撃に無関心なのは日本の国民だけではないか。
組織、国家のリーダーは権力は本当はどこに違いがあるのか。
人が幸せになるためのリーダーを選ぶ。
人の幸せを守るための国家を作る。
主義思想そのものが新しく作られるものでなくてはならないのだと思う。
日本は治安がよいと言われる。
世界ではどうだろうか。
犯罪は各国で様々に起きている。
振り返ってみて治安のよい日本に犯罪はないだろか。
沖縄で起きた事件と同じことが日本人の手で日本で起きないことがあるだろうか。
日本でも各地で犯罪は起きている。
同じような事件に遭遇したことである人は口をふさぎ、ある人は自ら命をたつこともあるだろう。
一生苦しみを背負い続ける人が静かに暮らしていることもあるだろう。
日本の似たような地域で同じような事件は起きないか。
日本の首都である東京で同じ事件は起きないか。
Miroku shows the god 18
「 自由に生きることが許された人よ
その手を犯罪に染めてはならない。
犯罪は他の人に痛みを与える。
何年たってもなかなかその痛みは癒えることはない。
犯罪は自分以外の人の自由を奪い、
そして深い悲しみや苦しみを与える。
自らに振り返ってみよ。
同じことが自らの身に起きてきたら
その痛みに耐えられるだろうか。
人よ、正しく生きなさい。
そして他の人を思いやりの心を持ちなさい。
そのときに自らの心が安らぎに満ちることを
感じることができるだろう。 」
もし、沖縄に軍事力がなければ、沖縄の人は安心して暮らせるということではない。
そう思う。
「神仏への畏怖」として「神仏を試すなかれ」「因果の理法を司る神仏」と書いてきた。
そして3つめに「神仏の秤」について書きたい。
人はある人が善行をしていると徳があってりっぱだという。
そして「悪人」と呼ばれている人(例え風評であろうとも)に対してあの人は「悪いことをしたから悪いことがおきて当たり前」だという。
日本で言ったらバチがあたったというものだろうか。
神仏の秤はあるのだろうか。
神仏の秤があったら、その秤は善と悪を分け、一人の人の善と悪と秤に乗せたらどちらが重いかと考えるだろう。
人は自分の心の中に善悪の秤を持ち、量ろうとする。
その秤の目盛りは誰によって書かれたものだろうか。
その秤のどちらかに乗せるかは誰が決めているのだろうか。
その秤に乗せるタイミングは誰が決めているのだろうか。
自分の心で自分を秤にかけているのではないか。
人間の心で他の人の善悪を秤にかけているのではないか。
善悪を秤にかける。
これは神仏のされることで人間の心でおこなってよいものではないと思う。
この世の価値観ではないもの、神仏しかわからないのが事実だと思う。
人は善を、正しさを選んでいかなくてはならない。
しかし、それは他の人に求めるものではなく、 まず自分の心に求めるものだと思う。
他の人の悪を攻める前に自分の心の点検が大切。
同じものはないか、同じことを心に描いたことはないか、過去においても同じものはないか。
なぜ、神仏の秤の話かというと人の善悪の真実を知っているのは神仏のみだからだ。
そういうことで神仏に対して畏怖の心をもつことが大切。
そして人は神仏の属性をたくさん身につけていくことが大切。
善を、正しさを選んでいくこと、それは仏性を磨くということ、そしてそれをこの世に顕わしていくことだと思う。
人として善悪について一番大切なのは一念三千
自分の心を秤にかけてみるより現在ただ今の自分の心が善悪を分け、正しさを選んでいるかということだと思う。
「神仏への畏怖」ということを「因果の理法」について書いていく。
神仏は「愛」であるけれどもその崇高さを知れば、「畏怖」するものである。
人は人生の中で何が正しく、何が間違いか考え、選び取っていかなくてはならない。
なぜか・・・。
因果の理法があって地獄に落ちないためか、来世天国に行くためか、そういう個人的なものではない。
自分自身の原因結果の法則の苦しみの元を修正し、人と人とがお互い幸福になるためにある。
その「因果の理法」を司るということで人は神仏に対し「畏怖」の心を持たなくてはならないと思う。
Miroku shows the god 17
「 人よ
因果の理法があるのは
神仏が人々を幸福にしたいと
考えているからである
だからお互い愛し合いなさい 」
この地球の仏さま、master of master は「愛」である。
先日のブログで書いた「神仏への畏怖」についてもう少し書きたい。
神仏は「愛」であるけれどもその崇高さを知れば、「畏怖」するものである。
「神仏を試す」とは自分は信仰をしているから、だから守られているというものだ。
「神仏を信仰しているので守られている」というものは、信仰であるが「信仰があるから守られる」というものはそれは神仏を試していることに他ならない。
「自分は神仏を信仰をしているから守られている。」
「自分は神仏を信仰があるから守られる。」
信仰によって守られているのは「神仏にお守りください」という信仰の元の祈りがあって、そして守られたという「結果」を自分で認識できたときに守られているのだと思う。
そして心から神仏への感謝が生まれる。
人は軽はずみな言動で人を傷つけることがある。
また人は間違いを犯すことがある。
神仏はその間違いの原因をすぐに因果の理法によって本人に結果を与えることはない。
その人の人生で一番その人の心の成長にとってよいときに現す。
また自分自身に厳しく、正しさをより求めている人にはその時間の間隔が短いのかもしれない。
しかし、神仏に対して信仰があるから自分は守られるというものは非常に傲慢で神仏を試していることに他ならない。
神仏への信仰ではなく、自己満足なのかもしれない。
そういう考え方は非常に危険だと思う。
昨日、人は個人や家庭としての苦しみのほか、その団体、国家などの苦しみの時があると書いた。
それまでは他の人が苦しんでいても「自分は、自分のところは大丈夫、自分に不幸はやってくることはない」と思っていることが多い。
本日強い、インスピレーションがあった。
Miroku shows the god 16
「 信仰者よ
汝ら、神仏を試すなかれ 」
今日のインスピレーションはとても短いものなので
その意味について書いていく。
仏さまは「愛」である。
しかし、仏さまは「愛」であるから、
何をしても許されることはあるだろうか。
信仰があれば何でも許されることはあるだろうか。
そういう信仰なら、その信仰している人だけが幸せになり、
それ以外の人は不幸になってもしょうがないのだろうか。
そんなことはない、
そして信仰は個人がこの世に表していなくても、
その心に信仰を持っている人はいる。
自らが正しく生きんとし、その信仰を大切にしている人はいる。
仏さまはその心を見つめておられる。
本当によく見ておられる。
また自らが信仰者だと言い、その信仰を広めるのに努力を
しているから自分が危険なことをしても守られるということは
あるだろうか。これは過去の歴史の中でも時々、
信仰者にみられたことだと思う。
神仏を試すなかれ。
神仏は「愛」であるけれども
その崇高さを知れば、「畏怖」するものである。
「神仏を試す」とは自分は信仰をしているから、だから守られているというものだ。
「神仏を信仰しているので守られている」というものは信仰であるが「信仰があるから守られる」というものはそれは神仏を試していることに他ならない。
そういうことだと思う。
以前にも書いたがこのブログの副題は「心の時代へのパラダイムシフト」
現代のコミュニティを形成するのも「心の価値」に目覚めることが大切だと書いた。
「心の価値」に目覚めるとは今ある常識や価値観から「心が大切」という価値観に変換が起きてくるというパラダイムシフトがおきてくることになる。
パラダイムシフトは人の力でおこなわれるわけではない。
過去に新たな価値観の変換があったときも神仏の力は大きい。
時代によってはその時代の想念によってなんらかの「価値観」の変換が起きるときもある。
人は個人や家庭としての苦しみのほか、その団体、国家などの苦しみのときがある。
それまでは他の人が苦しんでいても「自分は、自分のところは大丈夫、自分に不幸はやってくることはない」と思っていることが多い。
また「自分はこんなに努力しているのだから不幸なんてやってくることはない」と思っているかもしれない。
しかし、その心の方向が間違い、その先に深い苦しみが待っているのに気がつかず、自分は正しい、自分は大丈夫と思っているとやがてその深い苦しみのときがやってきたときに「なぜ、自分に、自分のところにこんな不幸がやってくるのだ、こんなはずはない」と思うことになる。
ここで自らを省みれる人はやがて次の扉が開くだろう。
そしてこのときに自分の間違いを考え、改めようとするなら仏さまの愛について考えてみてほしいと思う。
人が苦しみのときにだけ、仏さまが現れるのではない。
仏さまはこの世の人を通し、この世に起きるさまざまなことを通し、そして「法」そのものを現し、何度も何度も「道はそちらではない、そちらにいけば苦しむことになる。気がついて改めなさい。」と言われている。
そういう仏さまの愛があるということに気がついてほしい。
しかし、その手を払い、「自分が、自分たちが良ければよい、自分は自分のやり方でやっていく」と思って突き進んでいくとやがてやってくるのは苦しみとなる。
もし、深い苦しみの底に落ち込んでしまったとき、そのときは誰を恨んでも呪っても物ごとは解決しないことにやがて気がつくだろう。
苦しみの底に落ち込んでしまったらそのどん底の底を打ち破ると光が出てくる。この光はまさに価値観の変換を生むことになる。
集団でおきてきたらその集団で小さなパラダイムシフトが起きる。
今までの自分の自分たちの価値観が通用しない中、その中でやがて大きな気づきを得て「心の価値」に目覚めるのだ。
このとき宗教的な人は大きな悟りを得る瞬間にもなるだろう。
私は私が見えている他の人の苦しみにその苦しみの道を歩いてほしくはない。
いくつもある道にはたくさんの「幸福の芽」が隠されている。
その「幸福の芽」は森羅万象を通し、またあるときは法を通し、この世にその人の周りに現されていることに気がついてほしい。
年の初めにまた太陽の写メを撮っていた。
この時代に光を求めて・・・
時代が下るときにまた光も見えるのだという。
道はこっちだと指し示す人たちがいてその光をつかむかどうかはひとりひとりの「心の力」である。

先日からこのブログに「企業の組織力」ということを書いてきた。
組織の中の多くの人の心がそこにある価値観が正しくないのではないかと感じている組織は組織力は弱い。
そして企業は大きくなればなるほど浄化作用が働いていないと組織力が働かなくなる。
それは中小企業が大きくなるときにつまずく、あるいは大きくなれない原因となると思うと書いた。
そしてこのブログは民主主義の中で現代のコミュニティを形成することを書きたいと思っていること、
その中で民主主義を超えるものになるだろうと書いた。
「組織力」についてそれを「強める」ということを「壊すもの」について書いていく。
地域コミュニティというとやはり「愛」とか「思いやり」、「共に生きる」「助け合う」ということばが出てくる。
コミュニティの組織を作るには、その組織づくりの過程で「ある方向性のある思い、気持ち」や「理想」があり、それに伴って「共感」があり、組織力となる。
企業も数人から新しい組織をつくってできたものはその過程で同じような「共感」があり組織力となる。
組織づくりは小さなものから始まり、組織で人の関係、ひとりひとりにやがて強いつながりができてきたり、そこについていけないものは組織から出ていったりを何度となく繰り返していく。
やがて強いつながりや縁故関係で結ばれたものがその中に存在するようになる。
お互い、そのつながりが「愛」というものだと無言で感じていることがある。
しかし、ここにあるのは実は「愛」ではなく、「情」であるのだと気がつかなくてはならないと思う。
組織は一定の時間が経過したり、一定の大きさからもっと大きくなろうとする時にまた内外からの変革を求められたとき、更に組織の結束力を固め、進もうとするが全く逆にその力が働き、結局その組織を壊してしまうことがある。
壊してしまうものは何か。
ここに存在するのは「情」である。
マイナスの方向に引っ張られる要因としてよくよく心をみつめていくと「情」にひっぱられ、組織にとって必要なものが見えなくなることがある。
そして「組織力」を強めるためには「情」が阻害要因とならないように、そして「情」が破壊要因とならないように進まなくては組織力は強くすることは難しいと思う。