•   先日から「 神の見えざる手  invisible hand of God 」
      について書いてきた。
      信仰のある諸外国では「神」と言われることがどれほど大きなことか
      わかると思うが、この日本にはここでいう「神」という存在自身の
      存在や重さを理解できる人は少ないと思う。

      また、共産主義も「神の不在」を意味するが、本来「在った」ことをも
      意味している。共産主義のリーダーが「神」への信仰のもと、
      社会を作っていったら、また違うもっと高度な世界観をもった可能性が
      ないわけではないと思う。

      名のないときから、宗教的な社会主義的な考え方はあったと思う。
      現在、これに近い社会主義国家を形成し、維持していこうとしている国も
      あると思う。

      もどって、「神の見えざる手」により分配されるはずだが、
      資本家たちは利益を手にしているが労働者や国民には努力しても
      利益がこない、
      このことは現代は、時代が情報社会になってきたことで自分以外の人の
      情報がある程度つかめるため、「神の分配」ではなく、
      その労働の扱いについて正当か、どうかと考えることができる。

      そして日本のような民主主義で人が不当と考え、不満をもつことは何か、
      それが仏さまの目によって正当性があるとき、それによって
      反作用が起きてくることも十分考えておかなくてはならないと思う。

      不当とは何か、
      労働者としてその賃金について何かしらの原因かまたは原因なく
      不当だと感じること、
      労働者として自らの生産性や自らの発明について全く評価を受けず
      使用されること。
      労働者自身が身に覚えない不利益をこうむること、
      身に覚えない差別(いじめ?)を受けることなど、
      そういうことが考えられると思う。

      民主主義の場合の正当性について「不当でない」ことから
      書いた。

  •   先回のブログにもう少し足していきたいと思います。

      情報社会の中、一日で全世界に情報が回っていく、
      国家や経済、福祉の情報も同じく、世界に
      かけめぐっていきます。
      もはや、情報統制をしている国でなければ、
      情報を一国に収めておくことは不可能です。

      グローバルな視点が国家や経済、福祉に
      求められる時代になりました。
      世界競合の中、最高水準とは何かと考えられています。

      そういう点では日本の学力が低下し、日本のトップリーダーたちが
      世界で通用しなくなるような国づくりはしてはならないと思います。
      そして、経済の繁栄や福祉国家としても先日書いた
      米国の社会保障制度のように世界水準とは何か、その中で国は
      国民のために何を考え、これから何をしようとするかということが
      求められていると思います。

      特に福祉について世界最高水準と言われると、既存のものは価値観の
      転換が必要、安心できる社会づくり、国づくりが 
      もっとも大切なのではなく、
      基本な形として家族を守り、そして地域、国を守っていかなくては
      ならないというものがあり、国家有事のときでなければ
      家庭での幸福が国全体の幸福につながっていくと考える視点を
      忘れてはいけないと思っています。
      それが新しい福祉の最高水準に至っていくものではないか、
      そう考えています。
      ソーシャル・インクルージョンは問題のある社会に必要、
      しかし必要なのは、ソーシャル・インクルージョンではなく、
      家庭内にお互いの愛があることであると考えます。
      そのために何をすることがよいのか。

      まだまだ、このブログの先に進んでいきたいと考えています。

  •   「神の見えざる手」についてもう少し書きたいが
      今日は私のことを書きたい。

      もう随分長い間このブログを書いてきた気がしています。
      最初の読者の方と最近の政治色の強い内容と読者の方も
      変わったのでしょうか。
      私はきっと最初から読んでくださっている方もずっと
      読んでくださっているのではないかと思っています。

      なぜか、「現代のコミュニティ」は経済の発達した今、
      世界の課題であって、これをどう展開したらよいかと
      真剣にほんとうに真剣に考えている方々がおられることを
      私自身も知っているからです。
      そして私も真剣に真剣に考えているひとりです。

      「経済の成長」と「現代のコミュニティ」
      これは現時点では単に地域にコミュニティが必要だが
      どう形成するかという課題かもしれなません。
      社会のあらゆる問題を解決していくためのキーに
      なるものでもあると考えられます。

      けれど、時間の中でとらえると
      「経済の成長」によって失ったものを取り戻すことにも
      近いかもしれません。
      「神の見えざる手」のように「宗教的な世界観」、「精神性」から
      「この世の価値観」「唯物論」に変わってしまったものを
      取り戻すことかもしれません。
      「経済の成長」と書いたけれど、経済が高度成長する時期や
      経済が低迷してしまう時期があるがその中で普遍的なものは
      何かということかもしれません。 
      そして「人間にとって本当に大切なのは何か」
      という探求する旅の過程かもしれません。

      それはまさに「心の時代へのパラダイムシフト」となる
      そう考えてこのブログの副題にしました。

      「現代のコミュニティ」を考えていくときに大切なのは
      今までの歴史であり、そしてその歴史を残し続け、
      転生輪廻をしている私たちが成長してきていることだとも
      思っています。

      「現代のコミュニティ」でこのブログを読んで
      くださっている皆様、いつもありがとうございます。
      それからこのブログを見て何かしらご自身の心の琴線にふれ、
      共鳴し、考えてくださっている皆様、ありがとうございます。
      そして最近は心の時代の枠組みとして民主主義を元に
      政治的なことも多く含まれてきました。

      今日は心からの感謝をお届けします。
      このブログを縁に、
      皆様自身の「幸福の芽」が見つかりますように祈念して。

  •   このブログの中の「現代のコミュニティ」に
      ついて書きたい。

      私はこのブログで「現代のコミュニティ」について
      書いているが、何もブログに書かなくても
      実際、現実的に、いつか、自らこのことについて
      やっていきたいと考えているからである。

      だからインターネットは私にとって
      ひとつの「ツール」であると書いた。

      そしてこのブログにはいくつもの封印がある。
      それを現実にやっていった場合どういう展開に
      なっていくかと考えている。

      今世、私はいつかそれがかなうときがくるか
      その希望をもってこのブログを書きつづけている。

      *追記*
      一昨日書いたブログの中で「濡れ衣着せられた感触」と
      書きましたが、本当に着せられると困るので
      はっきり記載しておきますが、
      このブログは特定の団体や宗教団体と関わりのあるもの
      ではありません。
      そして仏さまはどこかにおられるのではなく
      この地球を内包し、私の心の中におられます。

  •   「 神の見えざる手  invisible hand of God 」
      この言葉自体が自由の中、利益のみを肯定していく
      信仰なき姿にもみえるのではないかと書いた。
      この先を急いだ人がいただろうか。
      「神の見えざる手」の意味はこの地上の人に与えらるものが
      神の手により分配されていくというもの、
      自由主義経済が発展していくと結果として
      全体の利益が達成されるというものだった。

      自由主義で自らに能力があり努力した資本家たちが、
      自分の得た利益は自分のものとし、栄えている。
      (雇用関係の中で不当かどうかということもあると思うが)
      しかし、経済成長の中、そう言われていたのに
      労働者や貧困者、また競争に負けたものには
      一向に「神の見えざる手」によって分配がない。
      「神がおられるなら分配があるはずなのに、
      おかしい。自分たちも努力しているのに分配がない。
      神はいないのではないか。
      ならば我々の手で平等に分配したほうがよい。
      資本家たちは我々の分も窃取しているから
      我々の手で平等にしなくてはならないと考えたのではないか。

      資本家たちは「神の見えざる手」という言葉を
      使うことで「神の見えざる手」によって分配されるから
      得た利益を自分のものとして享受していてよいと考え、
      一方で国民は「神の見えざる手」によって分配がないから
      自分たちの手で平等に分配すべきだと考えた。
      どちらも信仰なき姿に見える。

      しかし、国家の経済の話をするとき「神の見えざる手」の
      「神」は本当の神が言われたことではなく、人間が
      作った言葉であることを忘れているのではないか。
      ここにひとつの言葉による呪縛が存在する。

        Miroku shows the God  23
     
       「 人よ
         繁栄の道は発展と調和の中にあるのである

         それはお互いの存在を認め合い
         大切に考えるところから始まる

         私によって分配されるのではなく
         あなたがたがお互い幸福になる道を
         選ぶところにあるのだ 

             Master of Master        」

  •   「罪」というと「悪いことをした」ということだと思うが、
      最近また、このブログの「幸福の芽」の題名そのものに関係ある、 
      私自身の幸福の芽について書いたブログと同じようなことだと
      思うような感触のあることがおきた。

      その人は何か勘違いをしたのだろうか。
      人の痛みがわからないのだろうか。
      濡れ衣をきせられた感触がある。

      さて生まれてこのかた、私自身が聖人のように生きたかと
      言えばそんなことはない。
      暗闇の中、迷い、苦しみ、「何が正しいのか」を考えた。
      そして一番苦しいときに「幸福の芽」を見つけた。

      その後、様々な本を読んだ。
      本当に正しいことって何だろうと考えていた。
      「因果の理法」と「仏さまがおられる」と実感するまでに
      3年くらいかかった。

      そんなことを考えながら
      本日の沖縄普天間基地の首相の声明について
      考えたことがあった。

      「悪と知って犯す罪」と「わからずに犯す罪」
      どちらのほうが罪は重いか。
      知っていておこなう罪は悪いことをしたという
      意識があるのでその認識ですでにその人自身が善悪を
      分けているという事実がある。
      「わからずに犯す罪」は現在3とおりくらいに
      考えられるところだが、現在の首相について
      このことばを考えてみた。

      沖縄普天間基地のことで「迷走」と言われた
      首相自身は悪いことを考え、行うようにはみえない。
      そういうと多くの人はうなずくのではないだろうか。

      しかし沖縄の迷走については結果をみて
      国民は「悪い」と捕らえるのではないか。
      これもその人自身からみたら「わからずに犯す罪」の
      ひとつであると考えていた。
      迷走の罪はやはり、人々の痛みとして残ってしまった
      ことがあるだろう。「罪」は及ぼした影響の大きさでも
      あると思う。


  •   最近はあまり聞かなくなってきたが
      「小さな政府」ということについて書いていきたい。

      当たり前だが、日本は民主主義国家である。
      しかし今、社会主義に非常に強く傾倒してきている、
      社会主義を名乗らずに社会主義政策が進んでいる。
      以前こう書いたことがあった。
      私は経済に詳しいわけではないので詳細は
      専門家の方におまかせします。

      現政権はもともと「地域主権」と言っても
      実際、政策では「大きな政府」になろうとしている。
      やがてそれは社会主義になっていくと思う。

      少し前に自民党は「小さな政府」ということばは
      使わないと言っていたと思う。
      このことばは国民には理解しがたいことばでも
      あると思うが、自民党は「小さな政府」の負の部分を
      理解してたのかどうなのか。

      現在の日本は民主主義の中、「大きな政府」「小さな政府」
      どちらを選ぶかということではないと思う。
      まず、国家財政がどうあるか、
      「大きな政府」は経済成長期のものであるのではないか。
      逆のときに「小さな政府」というものが
      でてきたのではないか。
      現政権のように国家財政が見込めないときに
      「大きな政府」を実行し、国家財政で福祉の充実を
      図ろうとすると負担は企業のみではなく、
      国民に向かっていく。
      これを所得の再分配というのかどうか。

      また、前政権で「小さな政府」を実行し、
      現実的に問題が見えてきていた。
      現政権はそのいくつかの問題を確実に
      つかんでいたことがあると思う。

      「小さな政府」の中、
      いかに「大きな政府」の良さを取り入れることが
      できるかということが求められていると思う。
      これを「中くらいの政府」というのかどうか。
      これが現政権の「地域主権」と結びつくかといわれたら、
      結果は違うものになると思う。

      この新たなシステムは普遍的に継続できるもので
      なくてはならない。

      このブログの「現代のコミュニティ」は
      ここにも関係のあるものである。

      民主主義の「大きな政府」を超えて
      平等のもとに雇用、福祉政策、企業の公営化が
      進んでいくと社会主義になっていく。

      しかし、現在の日本は軍事力がないためにまず、
      日本を守れなくなる可能性が大きいと
      いうことを忘れてはならないと思う。

  •    「 神の見えざる手  invisible hand of God 」
       について先日このブログに書いた。
       このことについてはまだ書きたいことがいくつかある。

       自由主義、競争原理で経済成長が進んだとき
       この後、100年くらいで世界恐慌があった。

       「神の見えざる手」とは自由主義経済が
       発展していくと結果として全体の利益が
       達成されるというもの、
       「神の見えざる手」の意味はこの地上の人に
       与えらるものが神の手により分配されていくと
       いうものだとも言える。

       しかし、この言葉自体が
       自由の中、利益のみを肯定していく
       信仰なき姿にもみえるのではないか。

  •    *日記です*
       今日は私自身の悲しみの日
       この手ににぎった悲しみをさらに硬く握りしめて
       またあの弥勒菩薩像、泣き弥勒を思い出していた。

       「心」を大切にする。
       目に見えない「思いの世界」を大切にする。

       
       今日、日本から離れたミャンマー(ビルマ)から
       「心」が届いた。
       「大切なもの・・・」

       *追記
        この手ににぎった悲しみについて思い当たったことがあった。
        以前、日月神示の本を買ったときのインスピレーション、
        このブログの中のみろく神示 Miroku shows the God の
        きっかけとなったもの
        「 日と月はひとつになれなかった 」
        日月神示の本も未だ開いてはいない。

  •   九州から悲しみの心が届いてくる。

      まず、現実的に解決に向けて全力に進んでいくことが
      大切、一人の力ではできない。

      先日、因果の理法について書いた。
      今日は、「心」について書いていく。

      日本の九州で起きていることについて
      現時点で言えることは、
      一番は国家としてのリスクマネジメントだと思う。
      危機管理より、危機察知の「心」と考えていいと思う。
      日本を守るということ、
      どうすることが一番よかったのか精査してほしい。

      それから後々に考えてほしいと思うのは
      国家財政の使い方である。
      先日、「神のみえざる手」はあるのかということを
      このブログに書いたが、
      国税の使い方について現政権の問題提起が含まれている。
      国家としてのお金の流れについて考えてほしい。
      (特に子ども手当だと思われる)

      そして国民全体にある国や他者への無関心についての
      警告がある。沖縄の普天間移設についての無関心、
      今回の九州のことについての無関心、
      国民ひとりひとりが国を大切に考えるという
      「心」が大切。

      そして最後に沖縄の人々その関係する人々から
      今回の九州のことがどうみえているか。
      
      簡単なことではないその「心」に日本を大切に
      考えていくという未来を見たい。