• 心の時代とはどんな時代だろうか。

    心の時代で大切なのは「絶対的な他者の存在」
    依他起生のところで書いたとおり、自分以外の他の人がいないと人は生きれない。
    それを様々な人を通して感じていくこと。

    では「心」って何だろう。
    「心の存在」「心の意味」「心の価値」
    心ってあるのか、どんなものか、心って明確に意味づけできるのか、心に価値なんてあるのかという疑問が出てくるかもしれない。

    自分の心がわからないという人がいたらそれはいつも思いったったら行動している人、思いと行動が常に一緒な人、悪く言えば、頭にくることがあったらすぐに怒る人、心の存在を知っている人は
    今、自分が怒っていることわかるから、その怒りをどうしたらいいかって考える。
    誰かに「今、こんなこと考えているでしょう。」
    なんて言われてそのままその通りっていうときのそれが「心」

    人は「心」の中で様々な思考を繰り返している。
    そして悲しいと感じるのは頭ではなくて「心」
    苦しいって感じるのは頭でなくて「心」
    さみしいって感じるのは頭でなくて「心」
    それから
    楽しいって感じるのは「心」
    うれしいって感じるのは「心」
    ありがたいって感じるのも「心」
    幸せって感じるのも「心」

    「心」は精神世界を通し他の人とつながっているからだから「心」が大切。
    今、目の前にいる人とそしてこの国の人とそして世界の人とつながっている。
    「心」の世界はお互い影響を及ぼしあう、そういうものだから、だからお互い、愛し合いたい。

  • その1


    その2


    その3

    その4

    本日も天気が良かった。
    あまり、期待もせずにまたお昼に太陽の写メを撮った。
    今日の方が光線が強かったようで同じ携帯でとっても本日の方が青空が青くならない。
    本日は9枚。

    題名をスピリチュアルな日としたせいか、本日は「心の時代」について考えていた。
    私は今日まで考えたことがなかったが、「心の時代」は霊感の強い人や霊能者だけが生き残り、精神世界からのインスピレーションをいただきながら、作る時代だと思っている人がいるのだろうか。

    私が思っている「心の時代」はそういうものではない。
    神仏はおられる。
    3次元以降の世界がある。
    だからUFOがいたっておかしくない。
    だからってこれから到来する時代がUFOが行き来したり、霊感の強い新しい人類だけが生き残る世界ではないと思う。

    ある一定の人だけが生き残る選民的な時代ではない。
    しかしあえてどうかと言えばひとつキーワードが思い浮かんだ。
    いつか、そのことについて書きたいと思う。

  • 本日のお昼過ぎ、たいへん天気が良くて秋に植えた草花の様子をみていたら、急に太陽の写真が撮りたくなってまた撮ってしまった。

    本日はカラーが強く出ていてあとから見直すと少し怖さがある。
    写真では太陽の中央に黒点があるが太陽の光線にまぎれて大型のUFOがある。
    写メ20枚をみるとそれが円型だとわかる。
    太陽の周りにあるものはそれから映し出されているのではないかとも思える。
    先日、UFOのことをこのブログに書いたからだろうか。
    先日のものは今年、4月に撮ったものだ。
    この世の中だけでは完結しないもの・・・。

    神仏を信じ、この宇宙に他にも地球と同じような星があると思っている私にはあまり、驚きはない。
    しかし、今、なぜという疑問とともに未来への予兆を感じざるを得ない。

    2009/12/ 1 21:16

  • 「心」はある程度「科学」できるのだ。
    「現在ある自分の心」を分析してそれがどのいうものなのか。
    例えば自分の苦しみがあるとその苦しみはどういうものなのか。
    いろんな要素の中で分析していくと原因がある。
    それには法則性がある。
    分析結果に基づいてその阻害要因を抑え、発展的に考えると「これからどうしたら良い結果がでるか」と考えられる。

    心理学に「人間中心療法」というもの、精神医学に「認知行動療法」というものが最近聞かれる。
    苦しんでいるその人そのものを中心に据えて苦しみの原因を知って、その心の方向性を変えて問題解決をする。
    そう理解してもいいのではないだろうか。
    専門性が高い人からみていかがだろうか。
    ここには「心を科学している」セラピストが必要だと思う。

    ただ、必要なのはセラピストだけではない、神仏の世界であり、死後の世界観である。

    心を科学して苦しみから離れ、幸せな人が増えること。
    それができたらいい。

  • 「心の時代」ついてすでにいくつもブログを書いてきた。
    「心の時代」に大切なことがある。

    「心」はある程度「科学」できるのだ。
    「現在ある自分の心」を分析してそれがどのいうものなのか。
    例えばある人の苦しみがあるとその苦しみはどういうものなのか。
    いろんな要素の中で分析していくとこの苦しみの原因はこういうものだというものがある。
    それには法則性がある。

    「心の科学]についてはまた後日追記する。

    このことを仏教でいうこともできる。
    仏教に四諦八正道ということばがある。
    その四諦が「苦集滅道」である。
    八正道は八つの正しさへの道である。
    「苦・集・滅・道」
    苦しみを集めてそれがなくなった状態をイメージしそれにいく道程を考え行っていく。
    つまり仏教は「心の科学」なのだ。

    先日、今の日本に処方箋が必要だとブログに書いた。
    今、国民の中で苦しみを訴えている人の内容はなにか。
    この「苦集滅道」に合わせてみた。
    「苦」ー日本で苦しいと訴えている人は誰か、
        「全ての人ではない。」
        「無職の人たちが仕事がなくて苦しい。」
        「子育てがたいへんだ。」
    「集」ーなぜ苦しいか
        「仕事をしたいが見つからない。」
        「実際たいへんな人は食費を切り詰めなくては
         ならない、学校へ行かせたくても行かせられない」
    「滅」 ーその人たちの苦しみがなくなる。
        「安定した職業につける、働き甲斐がある。」
        「子供が安心して育てられる。子供の自己実現ができる。」
    「道」 ーそのための道はどういうものか。
        「雇用の政策が改善され、雇用が進む。景気が
         よくなるよう経済政策がとられる。」
        「子育ての政策が安定して継続的におこなえ、
         子供たちの自己実現が国力をあげることができる。」
    これは心の科学というより現在の日本の状況を「苦集滅道」にあてはめて考えたものだ。

    これを「心」でとらえてみる。
    内容を詳細に書かない。
    結果を記載すると
      日本の国民は「自由」を享受していたい。
      安定した生活が困難な人は安定した生活がしたい。
      そして行きついたのは「公務員に対する怒り」である。
    今、苦しいと訴えている人は社会調査をしてもいい。
    今、この苦しみをあまり感じていない人の割合を考えずにとらえる。
    本当に訴えたいのは「公務員・政府」に対する怒りである。
    現在の日本は公務員(たくさんの業種の人たちがいる)が賃金や社会的にも優位にいるがそれが国民に反映されていない。
    そう感じている人たちの思いが集まっているように見える。
    この意識に扇動作用がおきている。

    処方箋は、その部分を解決しながらしっかりとした政策を早急に立てていただきたいと思うところだ。

  • 日本の政治の先が見えない。

    民主主義を超えるところまできていた。
    しかし、先が見えない状態では民主主義は超えられない。

    社会主義になったら社会奉仕活動を役務として国民に義務づけ、そこから形成に向かえばいいのかもしれない。

    今、日本は全体主義に向かいつつある。
    しかし、それは本来の全体主義ではないと思う。
    それは国民の意見ではなく、大きく取り出されている問題をあおりその意識を使って扇動作用が働いているように見える。
    それに振り回されて自ら自国の首を絞めて苦しんでいるようにさえ見える。
    もっとも大切な理想もなく・・・。

    少なくとも経済大国と言われる日本の本来の姿を取り戻したい。

  • 「自由」ということをブログに書いてきた。
    書き足りることはない。

    「自由」という言葉があると、人は「平等」ということばを続ける。

    今の日本の若い人に聞けば「何でも自由だからいいじゃん」、そういうことばで終わって「平等」まであまり考えないのかも。
    ひとつは日本人には兄弟が少なくなったから兄弟で分け合う、それも多人数で分け合うことがなくなった。
    ものが溢れていて、そして個人主義的なことが多く近所でも分け合うことがなくなった。

    「平等」を考えるとき、一番にでてくるのが政治の中での「平等」だったが仏教の話から考えてみた。

    日本の仏教で地獄の様相の話、地獄で飢えに苦しんでいる人がいる。
    食べ物があるがその人は長い箸を持っている。
    その長い箸で食べ物をとって食べようとするがその箸はとても長くて食べものを口に運ぶことができない。
    食べ物があるが、いつまでも飢えで苦しんでいる。

    地獄では物を食べなくても生きていられる。
    肉体としての認識はあるが実在するのは魂だけだから。
    人が死んであの世に旅立って、一番最初に生きていた時の人生がどんなだったか、それを確認される。
    その中で残してしまった課題が来世の課題になる。
    よく世間でもいう「業~カルマ」を残したということ。
    そのカルマは来世課題として残るだけではない、まず、今世を終えてあの世に行ったら仏さまの心に合って生きた人なら天国へ行く。
    しかしそうでない人は何が課題だったか気づくために地獄にいく。
    地獄の様相は昔も今も変わらないことあり、また最近の世の中にあった地獄の様相があるはず。
    それから悪魔、サタンと言われる、地獄の最深部がある。今でもよく映画になる。


    ここまで書くと宗教的な人は悪魔はいるのか、サタンはいるのか。
    神仏は悪魔を作ったのか、神仏は悪魔のことをどう考えているのかと長い間の疑問に答えがほしいということになると思う。
    いつかこのこともブログに書くことがあるのだろうか。

    地獄で長い箸をもった人が食べ物を口にするために気がつかなくてはならないことそれは近くにいる長い箸をもつ他の人とお互い向かい合って長い箸でつかんだ食べ物を食べあうこと。

    この人はおなかが空いているのではない。
    自分が食べることばかり考えて他の人のことを考えてあげられない心がその心の中に地獄を作っていたのだ。
    人は一人では生きられない。
    人に依って生きているのにあまりに自分のことしか考えていなかったのだ。

    「平等」はお互い様の気持ちが大切。
    それは「時間」を超えて。

  • インスピレーションから霊現象の話になったのでこの世界についてもう少し書く。

    日本人の会話ってなかなか面白いって思うのは「あの世はあるか」って聞くと「ない」って答える。
    なのに「お盆にはご先祖様が帰ってくる」って「先立たれた夫が早く迎えに来ないか」って話を聞く。
    今の若者のほうがアニメや占いであの世を信じやすいのかも・・・。

    あの世はあるか。
    あると思わないと様々なことが完結しないようにできている。

    専門的な科学的な研究の中でも、現象でも、思想でも3次元を超えた4次元以降がある。
    昔からの宗教的にもそう言われているとおり、あの世に次元構造があって成り立っている。
    もはや現代の疑問を突き詰めるとそうでないと困難な状態になっている。

    あの世には次元構造があって神仏の世界がある。
    様々な星にその星それぞれの特色があるようにこの地球にも意識体があり、この地球を内包する神仏の存在がある。
    そして根本神仏はこの宇宙を統べる存在。

    人間には死んでも残る「魂」というものがある。
    この死んでも残る「魂」は私が大切って言っている「心」、生きているときにいう「心」が「魂」とつながっている。
    このひとりひとりの「心」が、より仏性を高め、深めようとこの世とあの世を転生輪廻して永遠の生命の中、経験を積み、知恵を磨いている。
    神仏がこの宇宙に「調和」と「発展」というベクトルを創った。
    そのベクトルの方向に向かっているものには個人にとっても喜びがあり、神仏にとってもそれは喜びなのだ。

    今、生きていると苦しみも多い。
    辛くて辛くていっそ自分の存在さえ消してしまいたいって思うことが起きることもある。
    いつまでも逃げていては苦しいだけ。
    乗り越えていくとそこには強くなった自分がいて乗り越えた経験ができて、そしてより多くの人を理解できるようになって深みのある達成感があるのだ。
    「心」を磨き、「魂」が無限の成長をしている。

  • 私は精神世界のことはブログに書きたいが霊現象のことをあまりブログに書きたくないと考えている。
    特によく霊媒師とか憑依現象とかっていうけれどそういうのは苦手かもしれない。
    特に先祖の霊のせいで不幸とか、何かがとり憑いて不幸になったとか、トラウマがあって不幸だとか、霊のせいではなかったら親が悪い、先生が悪い、友人が悪い。

    では何かのせいにして人は幸せになれるだろうか、なれる人はいない。
    だれかのせい、環境のせいにしている限り人は幸せになれない。
    人は仏性をもった存在、その仏性を信じて幸せになろうと、自らの足で前向きに生きようとしたとき、時間、忍耐、努力、勇気がいるけれど道は開かれていく。
    「心が変化すれば未来が変わる」と思っている。

    ここまで書いたのだけど、本日は精神世界の話になる。
    きのうこのブログ用にインスピレーションがあったので本日はここに記載しておきたい。

    それは「仏と弥勒菩薩の会話」

    仏  - 「弥勒よ、仏になりたいか」
    弥勒 - 「いいえ、私は仏になりたくはない。仏とはこの世界を創る力を持ち、この世界を幸福にせんと法をめぐらし、この世を発展させる力のあるもの、仏になれるものではない」 
    仏  - 「来世、仏になるだろう」

    このインスピレーションをいただいて私が考えたこと・・・。

    いろんな宗教や無神論でも人を思い通りにしたい、正義なんてどうでもよい、人を支配して自分が偉くなりたいと思う人がいたらその人は自分がいくら仏だ、神だ、○○だと言っても神仏から遠いのかもしれない。
    そう思った。

  • なぜ世の中に苦しみがあるのか。
    神仏が人間は間違いを犯すものだから、苦しみを与えたのか。

    人は人生の中で病気になってしまうことがある。
    全く何もないというのはほんのひとにぎりで何かしら病気の体験をする。
    苦しみの伴う病気なんてなぜあるのか。

    地震、風水害など災害がおき、天変地異が起きる。
    飢えがあり、病気が流行して人々の心が凍る。
    経済が成長し、また衰退して生きるのが辛い。

    日常の中で怪我したり、失敗したりいいことない日々が続く。

    人間は自分が苦しいとき、神仏がおられるならなぜ人間に苦しみを与えるのかと天をあおいで口にする。

    しかし、それはとても傲慢なことなのだ。

    なぜって何事も起きなくて自分が自由に暮らしていて、自由を享受しているときにそれが当たり前で自由であることがとてもいいこと、楽しみがあり喜びがあると感じながら神仏に感謝しないからだ。

    根本神仏はこの宇宙を創ったときに人や生物に「自由」を与えた。
    自由には楽しみや喜びが伴う。
    そして「自由」には「責任」が伴うはずのだ。
    なぜ「責任」が伴うか、それは人はひとりでは生きられないから。
    それなのに人はこの責任を果たさずに苦しみがあるときだけ神仏に「なぜ」と問う。

    この「自由」が与えられていることに感謝できて苦しみがあるときに自らを省みることができたら苦しみは少ない。
    そしてこの感謝や省みる対象はそれがそうだと言わなくても神仏であることには間違いがない。

    キリスト教の義人ヨブが「心の大切さ」を最初に学んでいたらたくさんの苦しみを与えられなかったのではないだろうか。

    人は行いにて間違いを犯さなかったら善人と言われる。
    その善人として生きている人もその心や行いにおいて他の人を傷つけることも罪だと気がつかなければ
    ならないのではないだろうか。

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