先日、人の残酷性と仏の愛というブログを書いた。
私のブログの中の仏=仏さまは根本神仏への思いに近い。
神さまということばがよいなら神さまでもいい。
神さまは言われる。
あなたを愛している。
その心に神と同じ神性が宿っているのだ。
愛さずにはいられない。
でもそれだけではあまりに抽象的かもしれない。
仏さまって、ではどういうものだろう。
世の中で言われる仏さまとか神とかと同じなのか、違うのだろうか。
私のブログで書いている仏さまへの思いは根本神仏に近い。
でもそれだけではあまりに抽象的かもしれない。
根本神仏はこの宇宙を創造した神であり、仏とも呼ぶ。
字の通りだ。しかし、私たちにわかりやすいとしたらきっと広大な宇宙の中に地球という星がある。
宇宙の歴史の中に地球の歴史が含まれているのだ。
だから私たちが認識できるのは地球を通しての宇宙の根本神仏ということになる。
地球でも長く歴史がある。
哲学でいうイデアの奥にあるもの、
イエス様の時代、主と言われた方、
お釈迦様の時代、仏と言われた方、
孔子の時代、あの北極星のようなと言われた存在、
古代の神々で太陽だったり、大きな目だったり
それぞれの神が地球の歴史の織物のその時代を築くためにその時代に展開する思想を説く方々が天上を指ししめしていわれるのが神であり、仏さまでありその姿を法によって現わす。
神は善悪を分けて罰する方という宗教では正しさ、善を現わし善悪を分けるのも神だが人は愛し合う存在という宗教では愛を表現するのも神である。
私のブログでは主に仏教から書いているのでお釈迦様の時代、「仏さま」と表現している。
根本神仏は光としても表現でき、万教帰一、すべての宗教には普遍性のある本質がある。
この本質が人の仏性、神性とつながっている。
根本神仏は地球の歴史や宗教の中でもっとも普遍性のある法をつかさどっていてそれ以上の存在だと思う。
その本質を、それが何かを人はこの世で探し求めているものでもある。
なぜなら人は仏性があるから・・・。
善行を行う人を偉いと思ったり、愛ということばに照れくさかったりあこがれたり。
人によい影響を与えている偉人の話を聞いたり読んだりすると感動したり。
そして悪いことをしたらやはり後ろめたい、善ではないことを心が知っているから。
善悪のつかないことでも時間がたつと自分の心が悪いことをしたんだと自分で気がつくことがあったり。
人はより多く自分の仏性を表現できると幸せになれる。
それによって神仏に愛され、心が満たされてくるからだ。
Happy sprout3 Maitreya / 幸福の芽3 蓮みろく
ひふみ神示(日月神示)の大奥山
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現代のコミュニティ
コミュニティケアになるがこの要素として①家族を書いた。
思いつくままだが2番目に福祉とした。
②福祉のことは現在社会的に非常に大きく取り出されている。
あまり細かく表現しないようにしたい。
ここまで心が大切と書いてきたようにコミュニティには心の価値が必要なのである。
心の価値とは・・・
また後日にする。
コミュニティケアの中の福祉は(専門職の人にみられたらコミュニティケア自体が福祉なのだと言われるだろうけれど)制度として評価的なものを求めすぎてはいけない。
世の中のISOの基準にあてはまるものばかりに評価を求めるとスキルアップがあり均一なサービスはあるかもしれない。
サービスは対価的なものという発想もある。
しかし、福祉は人と人である。
若い人や中年くらいの人が自分が年をとったときのことを考えると高齢になっても今の自分であるという発想が残念ながら生まれる。
しかし、生老病死の四苦に勝てるものはない。
高齢となってさまざまな喪失感の中で大切な何かを探し求める。
今の超高齢社会はむしろこの大切な何かを探す時間をこの世でいただいている人も多いのかもしれない。
均一で良質なサービスは必要といえば必要。
しかしむしろ均一なサービスになかなか入りきれない人、言葉使いも荒い人にふと心温まる感覚をもらうことがある。
そこであるものは均一なサービスを越えたものなのだ。
均一で良質なサービスしか求めない人に福祉で言う心の関わりは無用かもしれない。
むしろそんな人にはホテルマンのようなサービスが望まれる。
一流ホテルでは高額で良質なサービスが展開する。
そういう人は高額で良質な施設が似合っている。
コミュニティケアの他の要素も考えるとサービスにも心の価値を見出さないといけないのではないか。 -
この数日とても辛い日を過ごしていた。
あの泣き弥勒が自分と共に泣いてくれているのではないか、そう思いたいくらいに。
人は人を愛したいと思っている。
その反面、自分が苦しいと傷つけようとする。
人の残酷性・・・
人の残酷性は大きく三つにとらえられるのではないか。
ひとつは自分が苦しいから他の人に対し残酷性が出てくること。
他の人とくらべて自分が下に見られている気がして他の人とくらべられて自分が劣ってみえる。
他の人とくらべて自分が劣っていると感じる。
そんなときに出てくる残酷性
ふたつは自分があまりに優秀であまりに欠けることなく生きていて人の優位にたっている。
その傲慢さで人の痛みが理解できない。
優位にいる人はその優秀さゆえに人と競い合うことが当たり前のことになり、自分が上にいないと自分が自分でなくなるような、そんな風に考えてしまう。
自分が上にいるために他の人を苦しめてでも引き下げて自分が上に立ちたい。
その傲慢さが他の人にとって非常に残酷なものだと気がつくこともなく。
三つ目はなにもかも自分の手にあってなお人を支配したい人の残酷性、
自分の世界を築き、自分の思い通りにしたいと思う心が自分の思い通りにならない人に対してでてくる残酷性、そんな人はそんなにいないっていうだろうか。
小さな世界、家族、会社、組織でも大きな世界、政治でも、国でも、思想でもそして宗教でも、いろんなところにある。
そのみっつの価値の中に仏さまの心はない。
仏さまは言われる。
あなたを愛している。
その心に仏性が宿っているのだ。
愛さずにはいられない。
その心の中に私と同じ性質があるのだ。
今は苦しくてそれが表現できなくてもきっとあなたは自分の足で力強く歩こうとしたとき、私と同じ性質が現れてくるだろう。
きっとあなたは悲しみの中、苦しみの中大切なものが何かに気づいたとき、自分の心が安らぐことに気がつくだろう。
仏さまははるか高いところにいるのではない。
あなたがたを内包し、そしてあなたのその心の深く深くにいるのだとそう気付くだろう。
それは仏さまの存在そのものに気付くのではなく温もりをもった風のようにやってくる。
そして仏さまに愛されていると気づいた人は強い。
自分の境涯がどうあろうと強く人生を歩いていくことができるのだ。 -
仏教に「依他起生」ということばがある。
人は他に依って生きる存在、他に依って表現されている存在
他に依って生きる存在ということばのほうが普通に考えられる。
人は一人では生きられない。
いくら自分が頑張っても一人では生きれない。
自分が食べている食べ物、衣類すべてが人の手を介し生きている。
また生まれる時も親から人の手を介し生まれている。
そして病のときや年老いてきたらやはり人の手を介し生きなくてはならない。
いくら我をはって自分は何でもできる、自分が一番偉いといってもやはりどうしても他の人に依って生きている。
自分が独りで頑張って生きてるように思っても他の人がいなければ生きてはいけない。
他の人や万物は自分のために存在している訳でも自分の都合のために生きている訳でもない。
だから・・・
他の人や万物に感謝をしよう。
だから自分のことが大切って思っても他の人もまた大切なのだ。 -
現代のコミュニティの形成で人の力だけではできないと書いた。
様々に起きてくる災害の中で大切ななにかをつかむことが大切と書いた。
神仏の力でできるのか?
そうではない。
世の中が混迷し、また災害やパンデミックな病気が流行する。
そこで現代のコミュニティが形成されてこなくてはならない。
できることなら災害も病気の流行もその前にコミュニティが形成されてみんなが大切な何かをつかみとれば被害は最少限になれるのかもしれない。
最近の日本の地震や災害で発達してきたのはボランティアとそのボランティア組織、そしてその育成だ。
地震も災害もそしてパンデミックな病気もそのとき、一番最初にあって一番動けるのは地域しかない。
被害が大きかったり多発すればもっと「地域=コミュニティ」しかない。
昔昔から互助的なものはあった。
そうではなく、現代はもっと高度なコミュニティを形成していかなくてはならない。
そのために福祉が必要なのだ。
福祉と地域が一体となることが大切なのだ。 -
現代のコミュニティケアでは家族の力を引き出すことが大切だと書いた。
家族力はどうしたら築かれるか。
家族は核家族化している。
核家族化した家族は別々のものと考えている。
そうではなく核家族の形のままで世代をつなぐ家族としての強化はできないか。
現代のコミュニティケアの中でそういう視点で家族力を高めることも大切なのではないか。 -
無我になると仏さまの世界が現れる。
神仏の世界には法則がある。
この法則には発展というベクトルがあるといった。
時間があり、時間の経過とともに発展がある。
それが善でもある。
時間といったらもう一つは空間である。
空間があり、そこにあるもうひとつのベクトルは調和である。
世の中に「大調和」という言葉があり、これは善であると言われている。
しかし「大調和」は時間のベクトルが止まっている状態のことをいう。
時間と空間
この二つのベクトル相まって現われているのが神仏の世界でもある。
その二つがそろって善なのだ。
そして因果の理法はその中に存在している。 -
無我になると仏さまの世界が現れてくると書いた。
神仏の世界には法則がある。
森羅万象全て神仏の法則に基づいている。
その法則のひとつに発展のベクトルがある。
止観して無我となっているだけではいけない。
生きているということがすでに時間が経過している。
悟りのために一時的に止観するのは大切だが神仏の世界もまた止観して定まった状態ではないのだ。
いつまでも無我の中で止観しているとそれ自体がよいものではなくなる。
停滞は善ではない。
次の発展の芽を出さなくてはならない。
神仏は時間を作り、それは発展のベクトルをもって善となしている。 -
きのう「一切衆生悉有仏性」のことを書いた。
仏性について書き始めてまだまだ途中だった。
書いても書いても書き足りないのかもしれない。
仏性は神仏とは何かということとつながっている。
仏教には「山川草木悉有仏性」ということばがある。
山川草木というか森羅万象には仏性がある。
きのう書いた仏性とこの森羅万象の仏性は一緒ではないのか。
草花としたら草花には正しさ、愛、やさしさ、思いやりがあるだろうか。
発展や向上があるだろうか。
ここで思い出してほしいのは人間は万物の霊長と言われていること。
人間はこの地上の万物の中で一番たくさんの仏さまの性質を持っている。
他のものより仏さまに近いのだ。
他のものより仏さまに近い分、人には智慧を与えられた。
その知恵は本来、万物を生かす知恵なのだ。
そしてもうひとつ与えられたのは悟りの力。
仏教で「悟った」といったらそれまでだけれど、小さな悟りは日常の中にある。
自分の中にあってもあまり表にでてなくてみえてないような仏性にあるとき気がついていき、それが大切だと思うことである。
仏さまは重重無尽に人と人、人と万物を結んでいる。
そのものが持っている仏さまの性質の他にこの仏さまから出ている重重無尽の網も仏さまの意志があり、仏さまの意図がある。
木の葉一枚落ちるも仏さまの意志を感じ取ろう、わかろうと思うとそこには全く違う世界が現われてくる。
そこには奥深い仏性がある。
全てのものに仏性があると感じる。 -
現代は「家族力」が大切と書いた。
「家族力」はどうしたら築かれるのか? いくつか考えられる。
そのひとつは現代は家族を法律や制度でしばろうとしている。
逆に進んでいる核家族化をあたかも時代背景でそうなっているからしかたないと言ってもっと進めていっているようなもの。
今は核家族だからどうしたらよいかと考えていかなくてはらない。
家族が力を出せない世の中ならどうしたら家族が力が出せるのかを考えていくことが大切。
どうしたら家族が法律や制度で力を出せるか、そう考えてほしい。
そうしたら家族であることがまた喜びにもなると思う。